テキスト内容 | 「社」は神の降臨する所。また「上頭(みね)に樹林在(あ)り。これすなはち神社(かみのもり)なり」(出雲国風土記「秋鹿郡」条)とあるように、神は木や林や森にも降臨するところから「社」をモリとも言う。「木綿懸けて 齋(いは)ふこの神社(もり)」(7-1378)と、万葉集のこの歌では「神社」をモリと訓ませている。神域の森をも踏み越えて入ってしまいそうだと歌って、恋心の強さを表現している。「神の社」はいわゆる神社を意味するが、万葉集では神そのものをいうことが多い。「ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文(しつ)に取り添え 祈(こ)ひ祷(の)みて」(17-4011)は、逃げた鷹が戻って来るよう、神社に祈祷している歌の一節である。ここにはいわゆる神社としての「神の社」が詠まれている。ところが万葉集ではこの語はほとんどが相聞歌に詠まれ、恋心の表現に関わる使用例が多い。巻3「譬喩歌」部に収められた、娘子と佐伯赤麻呂(さえきのあかまろ)が丁々発止とやり合う贈報歌(3-404~406)では、神の社が巧みに使われている。第1首で娘子は「神の社」を赤麻呂の奥方に譬えて牽制し、第2首では、赤麻呂がそれに応えて「社」を娘子の愛人に譬えてやり返す。負けていない娘子は、第3首で、「我が祭る神」(娘子の愛人)と「ますらをに憑きたる神」(赤麻呂の奥方)との両方を詠み込んで、赤麻呂を手玉にとっている。ここでは「神の社」「社」「神」がほぼ同じ意味で使われている。このやり取りでは「神の社」が文芸的技巧的な意味合いをもって楽しまれている。他の用例も相聞歌に見える。恋人が毎夜通ってきてくれるようにと、「ちはやぶる神の社」に祈る女の歌(11-2660)、この歌と類歌関係にあり、恋人にまた逢いたいと、「ちはやぶる神の社」に祈る男の歌(11-2662)がある。また筑紫の国から奈良の都へ帰還する官人が、都にいる妻に逢うことを願って詠んだ歌(4-558)は、せっかく神に幣を奉って祈ったのに、妻に会えないのなら、あの幣を返してくださいと神に迫る歌である。この歌の前に配されている歌(4-557)から判断すると、この歌の作者は、海路の安全と妻との再会を祈願して神に幣を捧げたらしい。神をも恐れぬ恋心の強さと言えようか。とらえどころのない恋の成就を願って、神に祈るという万葉びとの発想は現代に通じるものであるが、同時に恋歌表現の手段として、神が利用されているところも面白い。なお万葉集中の「神の社」の用例すべてに「ちはやぶる」の枕詞が冠せられている。 |
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