テキスト内容 | 神の宮人なる語がみえるのは、「皇祖神の神の宮人冬薯蕷葛いや常しくにわれかへり見む」(7-1133)である。「吉野作」とある歌群の歌なので詠まれた場所は吉野のようであるが、どの神社なのか、如何なる神を皇祖神と呼んだかは不明である。宮は御屋。神の宮人は神の宮があること、仕える人がいることを前提とする語で、神の宮に奉仕する人を言うとみられる。万葉集には他の例はみえないが、記雄略天皇条引田部の赤猪子の話に「御諸に 築くや玉垣 斎き余し 誰にかも寄らむ 神の宮人」(記歌謡94)とみえる。万葉では天皇の宮に仕える人は「大宮人」(「ももしきの大宮人」(1-36)、「さす竹の大宮人」(6-955)等)、皇子の宮に仕える人は「宮人」(皇子の宮人(2-67))と呼ぶ。記紀歌謡には「宮人振り」なる歌謡があり、軽太子にかかわって「宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ」(記歌謡84・紀歌謡73)とみえる。神の祭祀の場は、古くは恒常的なものではなく、神を迎えて祭儀を行うに際して臨時に設ける場合もあった。藤原清河が遣唐使に任命され、光明子がその無事を祈って春日野に神を祭った時に、「春日にして神を祭る日に」と題して歌(20-4240)を詠んでいる。異論もあるが、このときまだ春日社は創建されていなかったのである。これを神祭りの基本とし、神体山や磐座を祭祀し神殿を設けない神社も古来ある。今も大三輪神社は三輪山と磐座をまつり、拝殿のみで神殿はない。しかし、伊勢神宮はじめ多くの神社は神殿(神宮)を造った。垂仁紀は伊勢神宮については垂仁天皇の時、磯宮を造ったという。万葉には「十市皇女、伊勢の神宮に参赴りし時」(1-22題詞)等とみえる。大国主神は国譲りの時、立派な神殿を作るよう要求し(神代記)、垂仁天皇の時には宮を修理するよう求めて祟ったという(垂仁記)。また、家持の歌の題詞には「気太の神宮に赴き参り」(17-4025題詞)、とみえる。神の宮人はこうした神の宮に奉仕する人をいう語といえる。 |
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