テキスト内容 | 万葉集に11例、記歌謡に1例見える。柿本人麻呂は、大和を離れて近江に都した天智天皇を「すめろきの神の命」(1-29)と詠み、その大宮の廃墟を悲傷し、日並皇子の挽歌において「葦原の水穂の国」を支配するために天降る「神の命」(2-167)を詠む。この日並皇子の挽歌の「神の命」の解釈には諸説があるが、天武神話としてその文脈を読み解く神野志隆光説(『古代天皇神話論』)に従うと、天武天皇を指すことになる。山部赤人は、「すめろきの神の命の敷きます国」の中でもすばらしい所として「伊予の湯」を賛美する。大伴家持は、「高御座 天の日継」(18-4089、4098)という、天皇の玉座と天神からの皇位継承を保障する表現を受ける形で「すめろきの神の命」と詠む。また「葦原の水穂の国」を支配するために天降った「すめろきの神の命」は、人麻呂歌を意識した表現であろうか。これらの歌に田辺福麻呂歌集中の、久邇新京を賛美する表現に用いられた「我が大君 神の命」を加えた「神の命」7例は、天神直系の御子としての皇統の保障、また天皇の宮賛美の文脈の中で用いられ、天皇の神格化表現の一つとして意味付けることができる。また、山上憶良歌の「足日女 神の命」(5-813、869)は息長足日女命(神功皇后)を指し、天皇に準じた神格化表現と見てよい。他の3例は、「神語」中の「八千矛の 神の命や 我が大国主」(記5)と、大伴坂上郎女歌の「久方の 天の原より 生れ来る 神の命」(3-379)、「海神の 神の命の」(19-4220)である。「八千矛の神の命」は、「八島国」の支配者としての「大国主」の姿を重ねれば、天皇に繋がる「神の命」の質を見ることもできる(青木周平『古代文学の歌と説話』)。しかし、大伴坂上郎女が「天の原」から「生れ来る」とした「神の命」とは、天孫降臨に付き従った大伴氏の祖先神を指し、「海神」を示す「神の命」も、天皇とは繋がらない。すべての用例を天皇の神格化表現と見ることはできないが、その多くが天神を基点とした皇統意識のもとで「天皇」を指して使用されているのには、理由がありそうである。そもそも「神」と「命」という語は、同格で結ばれるような同一の神観念をもつ語ではなかった。本居宣長は『古事記伝』において「可畏き物を迦微とは云なり」(三之巻)といい、「命ノ字を書クは、本御言と云に此字を書るを、言の同じきまゝに、尊称の美許登にも借て用ひたるなり」(四之巻)と述べた。しかし伊耶那岐・伊耶那美が「神」から「命」に変る国土の修理固成の段については、「こは殊なる意はあるべからず」として問題にしなかった。以後の「神」と「命」の研究史は、記紀を中心に、この書き分けの意味の有無に焦点を絞って展開してきた。まず原田敏明は、記紀の比較により、「神」文書と「命」文書という資料の違いを説き、「命」から「神」へという時代的変遷を推定する。この資料の違いという指摘は武田祐吉にも見られるが、武田はさらに両者の性格の相違を「神として神異性の濃厚な場合に、何々の神といひ、人間性の強く感じられる場合に、何々の命と申すと考へられる。」と論じた。神異性(宗教性)の有無という視点は、津田左右吉にも見られる。津田は、「ミコトといふ語は、本来、宗教的意義を有たない、即ち人としての、尊称であ」り、神は「宗教的意義のあるものである」という。このような違いがある語を同一神に用いる、すなわち伊耶那岐・伊耶那美の尊称の変化について、菅野雅雄は折口信夫のミコトモチの論理を用いて、明快に説いた。伊耶那岐・伊耶那美の国土の修理固成は、「天つ神諸の命以て」実行に移されるが、発言者である「天つ神」と同等の資格を二神が与えられ、そのミコト(御言)を引き継ぐ者として「命」と記されたと見るのである。「此みこともち通有の注意すべき特質は、発言者自身と、尠くとも同一の資格が考へられて居た事である」という折口の論理は、天神直系の御子としての天皇にそのまま当てはまる論理である。万葉集の「神の命」という語は、「神」と「命」の混用の結果というより、天神の資格を引き継ぐ「命」としての天皇を指すと理解すべきであろう。原田敏明『日本古代思想』(中央公論社)。武田祐吉「敬称としての神と命」(『文学』11-1)。津田左右吉「上代の部の研究」『全集3』(岩波書店)。菅野雅雄「国土の修理固成条」『著作集3』(おうふう)。 |
---|