かみのみこ

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名かみのみこ;神の御子
+表記神の御子
TitleKaminomiko
テキスト内容天皇の霊を継承する御子。天子となる神の子。715(霊亀元)年9月に志貴皇子(天智天皇の皇子)が没した時の、笠金村歌集所収の挽歌に、高円山に盛んに燃える火はいかなる火かと問うと、道来る人は涙を流しながら立ち止まって語るのを聞くと、その人は声に出して泣きながら、その火こそは「天皇の 神の御子の いでましの 手火の光」(2-230)が照っているのだと語ったという。御子は皇子のことであり、それを神の皇子だというのは、天武・持統朝あたりから現れた思想であろう。壬申の乱に勝利した天武天皇は「大君は神にしませば」と称えられた。天皇を神と称えるのは、天皇が高天の原の神の子孫であるからだが、そのような系譜が成立するのは、壬申の乱以後のことと思われる。まして皇子を神の御子とするのは、直線的に神なる皇子が成立したものではない。この「神の御子」は「天皇之神之御子」と表されていて、これは「天智天皇の御子である神の皇子」の意味ではなく、「天皇の」は直接に神の御子に掛かる修飾格であり、この「天皇之」は「スメロキの」と訓まれる。つまり「スメロキの神である御子」の意であり、「スメロキ」は律令制上の「天皇」の意味ではない。スメロキは「須売呂伎能 可未能御代」(20-4465)の「須売呂伎」であり、これは「皇祖乃神之御代」(6-1047)ともあるから、スメロキが皇祖を指すことが知られる。皇祖は過去の天皇であり、それらがスメロキと呼ばれているのであり、それであれば「スメロキの神の御子」とは、皇祖に連なる神の御子の意であり、この皇子が没したことで与えられた尊称であろう。そのような尊称の成立は、持統天皇が天武没後8年を経て斎会の夜の夢の中で習い詠んだという「わご大君高照らす日の御子」(2-162)から見ると、天皇でも没すると日の御子と呼ばれるということと重なる問題がある。天皇も皇子も没すれば日の皇子であり神の皇子であるという理解は、天皇も皇子も天の神の子(天なる子)として地上に神下るという考えによるものであろう。柿本人麻呂は日並皇子の挽歌で、天地初発の時に天の河原に神々が集い、天上は天照らす日女の神が支配し、葦原の瑞穂の国は神の命としての日の皇子の支配する場所だと決定され、神下りをしたと歌う。その神なる日の皇子が地上の天皇となり天下を支配することになるのである。その神なる日の皇子が高天の原のスメロキ(天皇)の霊を継承する者であり、そこに神の御子という称が現れた。この「神の御子」は、「天皇之神之御言」(1-29)や「高御座 安麻乃日継登 須売呂伎能 可未能美許登」(18-3089)のように、スメロキの神のミコトと表される。そこには皇祖らの霊を継承する神の御子(天の子)の像が見て取れるであろう。折口信夫「大嘗祭の本義」『折口信夫全集3』(中央公論社)。辰巳正明「天皇の解体学」『折口信夫 東アジア文化と日本学の成立』(笠間書院)。
+執筆者辰巳正明
コンテンツ権利区分CC BY-NC
資料ID31874
-68438402009/07/06hoshino.seiji00DSG000264かみのみこ;神の御子Kaminomiko天皇の霊を継承する御子。天子となる神の子。715(霊亀元)年9月に志貴皇子(天智天皇の皇子)が没した時の、笠金村歌集所収の挽歌に、高円山に盛んに燃える火はいかなる火かと問うと、道来る人は涙を流しながら立ち止まって語るのを聞くと、その人は声に出して泣きながら、その火こそは「天皇の 神の御子の いでましの 手火の光」(2-230)が照っているのだと語ったという。御子は皇子のことであり、それを神の皇子だというのは、天武・持統朝あたりから現れた思想であろう。壬申の乱に勝利した天武天皇は「大君は神にしませば」と称えられた。天皇を神と称えるのは、天皇が高天の原の神の子孫であるからだが、そのような系譜が成立するのは、壬申の乱以後のことと思われる。まして皇子を神の御子とするのは、直線的に神なる皇子が成立したものではない。この「神の御子」は「天皇之神之御子」と表されていて、これは「天智天皇の御子である神の皇子」の意味ではなく、「天皇の」は直接に神の御子に掛かる修飾格であり、この「天皇之」は「スメロキの」と訓まれる。つまり「スメロキの神である御子」の意であり、「スメロキ」は律令制上の「天皇」の意味ではない。スメロキは「須売呂伎能 可未能御代」(20-4465)の「須売呂伎」であり、これは「皇祖乃神之御代」(6-1047)ともあるから、スメロキが皇祖を指すことが知られる。皇祖は過去の天皇であり、それらがスメロキと呼ばれているのであり、それであれば「スメロキの神の御子」とは、皇祖に連なる神の御子の意であり、この皇子が没したことで与えられた尊称であろう。そのような尊称の成立は、持統天皇が天武没後8年を経て斎会の夜の夢の中で習い詠んだという「わご大君高照らす日の御子」(2-162)から見ると、天皇でも没すると日の御子と呼ばれるということと重なる問題がある。天皇も皇子も没すれば日の皇子であり神の皇子であるという理解は、天皇も皇子も天の神の子(天なる子)として地上に神下るという考えによるものであろう。柿本人麻呂は日並皇子の挽歌で、天地初発の時に天の河原に神々が集い、天上は天照らす日女の神が支配し、葦原の瑞穂の国は神の命としての日の皇子の支配する場所だと決定され、神下りをしたと歌う。その神なる日の皇子が地上の天皇となり天下を支配することになるのである。その神なる日の皇子が高天の原のスメロキ(天皇)の霊を継承する者であり、そこに神の御子という称が現れた。この「神の御子」は、「天皇之神之御言」(1-29)や「高御座 安麻乃日継登 須売呂伎能 可未能美許登」(18-3089)のように、スメロキの神のミコトと表される。そこには皇祖らの霊を継承する神の御子(天の子)の像が見て取れるであろう。折口信夫「大嘗祭の本義」『折口信夫全集3』(中央公論社)。辰巳正明「天皇の解体学」『折口信夫 東アジア文化と日本学の成立』(笠間書院)。
265かみのみこ神の御子辰巳正明か1

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