テキスト内容 | 神の定める道理。用例は「天地の神のコトワリ無くはこそ我が思ふ君に逢はず死にせめ」(4-605)の1例のみ。笠女郎が家持に贈った24首中の1首で、天神地祇の定めた道理があるから生きて君に逢えるのだ、という意味である。コトワリは物事が進んでいく決まり切った筋道、道理の意。他に4例あり、いずれも憶良の「世間は かくぞコトワリ」(5-800)を踏襲したもので、家持と坂上郎女の歌に見られる。笠女郎歌は類句によらない個性的な表現だが、紀に「天神地祇(あまつかみくにつかみ)、共に證(ことわ)りたまへ」(舒明紀)があり、神のコトワリという観念もあった。神祇の定める道理は、たとえばフトマニ(太占)においては鹿の肩胛骨を焼いて、そのひび割れの具合から読み取る、というかたちで判断されていた。また、熱湯の中に手を入れて火傷をするかしないかで、行為の正邪を判定するクガダチ(盟神探湯)のような呪術が行われていたのも、神の定める道理が信じられていた証拠である。ウケヒ(誓約)やユフケ(夕卜)なども、人間の判断を超えたものへの信仰が生み出した呪術にほかならない。憶良にはじまる「世間(よのなか)の道理(ことわり)」は儒教的な観念から見た生きかたの常識であるが、「神の道理(ことわり)」は人智の及ばない摂理とみなされ、祭祀に関わる諸事万端などは神意を窺うことによって執り行われるべくされていた。笠女郎が家持に贈った歌群の中には「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後方(しりへ)に額つくごとし」(4-608)のような特異な発想をもつ歌がある。「神のコトワリ無くはこそ」の1首も、そのような独創的なアイディアが生み出したものであろう。ただし、この歌が「~無くはこそ」と反語形をとっているのは、神の定めた道理を疑う意識を忍ばせており、呪術的信仰を文学的な修辞に変形して利用する技巧として機能している。 |
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