香椎宮

かしい

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名かしい;かしひ;香椎
+項目名(旧かな)かしひ
+表記香椎
TitleKashii
テキスト内容地名。福岡県福岡市東区香椎。香椎宮がある。仲哀天皇の宮として、記に「筑紫の訶志比宮」、紀に「橿日宮」。熊曽征討、新羅出兵の根拠地。香椎宮は仲哀天皇・神功皇后を祭神とし、応神天皇及び住吉大神を配祀する。万葉集では、728(神亀5)年冬11月、大宰の官人等、香椎廟に参拝し、終わって帰るときに馬を香椎の浦に止め、大伴旅人・小野老・宇努男人がそれぞれ胸中を述べて作った歌が記されている(6-957~959)。旅人の歌は、一行に対して、袖の濡れるのも忘れて香椎の干潟で朝菜の海藻を摘もうというもの。それを受けた老の歌は、海からの風が吹きそうになってきたから、今のうちに玉藻を刈ってしまおうというもの。香椎廟参拝を終えた後の晴れやかでくつろいだ心情が窺える。対して男人の歌は、大和へと帰任することに対する名残惜しさを詠んでおり、大宰府への行き帰りにいつも見ていた香椎潟であるけれど、明日からはもう見るすべもないと、香椎潟への惜別の情が伺える。香椎宮編年記の記事によれば、大宰帥が国司郡司を率いて香椎廟に参拝することは重要な年中行事であったと思われ、その時期は11月6日であったという。『続日本紀』の737(天平9)年4月乙巳条に、対新羅関係を諸神に報告する記事中に、伊勢神宮・大神神社・筑紫の住吉社・八幡社と並んで、この香椎廟が見える。万葉集や『続日本紀』に「廟」と見えることから、奈良時代には「香椎廟」が公称であったと見られ、通常の神社とは性格が異なるもののようである。記紀にみる仲哀天皇の宮がその廟所となり、仲哀天皇・神功皇后の霊を祀った所であったためであると見られる。737年の記事は新羅との外交問題に関したものであるところからすれば、神功皇后の新羅遠征伝承に基づいての参拝であったと思われる。『仙覚註釈』に引かれた風土記逸文には、筑紫の国に到れば先ず哿襲宮(香椎宮)に参拝することを常とする、と記している。
+執筆者谷口雅博
-68399402009/07/06hoshino.seiji00DSG000225かしい;かしひ;香椎Kashii地名。福岡県福岡市東区香椎。香椎宮がある。仲哀天皇の宮として、記に「筑紫の訶志比宮」、紀に「橿日宮」。熊曽征討、新羅出兵の根拠地。香椎宮は仲哀天皇・神功皇后を祭神とし、応神天皇及び住吉大神を配祀する。万葉集では、728(神亀5)年冬11月、大宰の官人等、香椎廟に参拝し、終わって帰るときに馬を香椎の浦に止め、大伴旅人・小野老・宇努男人がそれぞれ胸中を述べて作った歌が記されている(6-957~959)。旅人の歌は、一行に対して、袖の濡れるのも忘れて香椎の干潟で朝菜の海藻を摘もうというもの。それを受けた老の歌は、海からの風が吹きそうになってきたから、今のうちに玉藻を刈ってしまおうというもの。香椎廟参拝を終えた後の晴れやかでくつろいだ心情が窺える。対して男人の歌は、大和へと帰任することに対する名残惜しさを詠んでおり、大宰府への行き帰りにいつも見ていた香椎潟であるけれど、明日からはもう見るすべもないと、香椎潟への惜別の情が伺える。香椎宮編年記の記事によれば、大宰帥が国司郡司を率いて香椎廟に参拝することは重要な年中行事であったと思われ、その時期は11月6日であったという。『続日本紀』の737(天平9)年4月乙巳条に、対新羅関係を諸神に報告する記事中に、伊勢神宮・大神神社・筑紫の住吉社・八幡社と並んで、この香椎廟が見える。万葉集や『続日本紀』に「廟」と見えることから、奈良時代には「香椎廟」が公称であったと見られ、通常の神社とは性格が異なるもののようである。記紀にみる仲哀天皇の宮がその廟所となり、仲哀天皇・神功皇后の霊を祀った所であったためであると見られる。737年の記事は新羅との外交問題に関したものであるところからすれば、神功皇后の新羅遠征伝承に基づいての参拝であったと思われる。『仙覚註釈』に引かれた風土記逸文には、筑紫の国に到れば先ず哿襲宮(香椎宮)に参拝することを常とする、と記している。226かしいかしひ香椎谷口雅博か1
資料ID31835

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