テキスト内容 | 603(推古11)年より豊浦宮にかわって推古天皇の都の置かれたところ。比定地については、現在の奈良県高市郡明日香村豊浦付近、同明日香村雷付近、桜井市大福にある三十八柱神社付近など説が分かれる。万葉集には2首「小治田」の表記でこの地をよんだ恋の歌があるが(11-2644、13-3260)、そこに描かれるのは、川のあるごく一般的な農村の風景であり、天皇宮跡地としての小墾田を想像させる要素はない。記には「小治田」、紀には「小墾田」の表記で登場する。皇極紀元年12月条には、皇極天皇が宮を定めるまでに一時小墾田宮に移ったと記されており、斉明紀元年・天武紀元年にも「小墾田」に関する記事が見える。また、続紀にも、淳仁天皇が760(天平宝字4)年から「小治田宮」に移ったという記事をはじめ、小治田の地名が散見する(天平宝字4~5年、天平神護元年)。1970年代以降の発掘調査により、明日香村豊浦にある古宮土壇が小墾田宮推定地とされていたが、1987年の調査で、雷丘東方より「小治田宮」と書いた平安時代の墨書土器が出土したことにより、奈良時代以降の小治田宮についてはこの地であることがほぼ確定した。付近では、7世紀前半に溯る堀割状の遺構の存在も確認されており、また、『霊異記』上巻第1話には、雷丘(電岡)の所在について、「古京の少治田の宮の北に在りといへり。」との注記があって、小墾田宮が雷丘東方にあったとすればこの記述とも符合する。推古天皇の小墾田宮が雷丘東方遺跡に位置していた可能性はきわめて高いといえる。小澤毅『日本古代宮都構造の研究』(青木書店)。 |
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