テキスト内容 | ①墓所・墓。②墓所を含めて亡き人を偲ぶ領域。③祖先の顕彰地。④丘墓。①墓所に立ち寄った時の感慨を詠む歌の中に多く用いられる。山部赤人は真間娘子の墓に立ち寄り「奥つ城を こことは聞けど」(3-431)としながら、真木の葉が茂ったために或いは松の根が年久しく延びているためにか、所在を確認できない様子を詠う。高橋虫麻呂は、同娘子が入水した経緯を「波の音の 騒く湊の 奥つ城に 妹が臥やせる」(9-1807)と詠み込んだ。死後の時間の経過や墓の明確な所在に関わりなく、詠出することで亡き人を偲び語り継ぐための象徴にしている。高橋虫麻呂は、菟原娘子の墓を見て詠む長歌の中で「処女墓(をとめのはか) 中に造り置き 壮士墓(をとこのはか) このもかのもに 造り置ける」(9-1809)と表現しながら、反歌に「葦屋の菟原処女の奥つ城を」(9-1810)と詠み込む。「壮士墓」は句の形成上2音の「墓(はか)」が選択されていると考えると、「奥つ城」と同義に用いられている。田辺福麻呂は同墓を「後人の 偲ひにせむと 玉鉾の 道の辺近く 岩構へ 作れる塚を」とも表現する。『新全集』はその内容から「オクは土中深い所を意味し、キは堅固に築き固めた建造物をいうか。」と説く。②山部赤人歌には「我も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥つ城処」(3-432)と見える。初句の「見つ」は①で取り上げた長歌の「奥つ城を こことは聞けど」(3-431)の「ここ」の延長にある。所在が明確でなかった墓所を含め、娘子を偲ぶことができる領域全体を「処」と表現している。高橋虫麻呂は「葦原の 菟原処女の 奥つ城を 我が立ち見れば」と直視する姿勢を詠みながら、「天雲の そきへの極み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ ある人は 音にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎ来る 処女らが 奥つ城所」と、見る者の心情を受け止め続けられる時空間を詠出する。反歌に「語り継ぐからにもここだ恋しきを直目に見けむ古壮士」とあることを鑑みると、その領域は処女墓に限らず壮士墓までを含む。③大伴家持は亡き妾を「我妹子が奥つきと思へば愛しき佐保山」(3-474)と偲ぶほか、祖先を「大伴の遠つ神祖の奥つ城は顕く標立て人の知るべく」(18-4096)と顕彰すべき地であると主張する。④天智紀2年9月7日条に「丘墓」と記され「おくつき」の古訓が施されている。墳墓を想起すると、その奥に納められた石室等が思い浮かべられる。 |
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