おきながたらしひめのみこと

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名おきながたらしひめのみこと;息長足日女命
+表記息長足日女命
TitleOkinagatarashihimenomikoto
テキスト内容漢風諡号は神功皇后。第14代仲哀天皇の皇后。記では品夜和気命と品陀和気命(第15代応神天皇)の生母とするが、紀では誉夜別皇子の母は来熊田造の祖大酒主の女弟媛とし、オキナガタラシヒメの子は誉田天皇(応神)のみとする。記に息長帯比売命、紀・『新撰姓氏録』、『先代旧辞本紀』に気長足姫尊、播磨国風土記に大帯日売命、常陸国風土記に息長帯比売天皇、万葉集に多良志比咩可尾能弥許等、などと表記される。巻9の一巻を気長足姫尊にあてる書紀の異例の扱いや、常陸国風土記の天皇号使用は、皇統譜上のオキナガタラシヒメの特殊性を示している。記紀によれば、父は開化天皇曾孫のオキナガ宿禰王、母は葛城タカヌカヒメ。記のタカヌカヒメは父系をたどれば天之日矛の六世孫(日矛を一世と数える計世法による)。オキナガタラシヒメという名については、近江国坂田郡に息長の地名があり、息長氏との関係も説かれる一方、長寿充足の意の嘉名といわれる。記紀の神功皇后説話は、(1)熊襲征伐の際に神がオキナガタラシヒメに懸かり新羅征討を教示、従わなかった天皇は死に至る。(2)懐妊しているオキナガタラシヒメが新羅を征討し、帰途に筑紫で太子を出産する。(3)太子の異母兄カゴサカ王・オシクマ王の反逆を平定する。(4)太子とタケウチ宿禰がケヒ大神に参拝する。(5)オキナガタラシヒメとタケウチ宿禰が酒楽歌を唱和する、のプロットをもつ。神功皇后説話は母子神信仰譚の性格をもつが、万葉集の歌はその中核をなす(2)に関わって詠まれ、①怡土の鎮懐石 ②松浦の鮎釣がテーマとされる。①は新羅征討の折り、袖に挿んで鎮懐とした二つの石が怡土郡にあるといい(5-813序)、その霊妙さを讃える(5-813~814)。ただしこの歌の鎮懐は御心を鎮める意である。記紀ではオキナガタラシヒメは出産を延ばすため裳の腰に石を着けて遠征し、その石は伊都に現存するというが、万葉集の憶良の歌からは出産という要素が脱落している。②については序と歌(5-853序、854~863)があるが、記紀によれば新羅征討の際、オキナガタラシヒメは4月に松浦県玉島里の河辺で裳の糸を抜き年魚を釣った。これが土地の女人の風習となって今に至るまで絶えないという。ほかにオキナガタラシヒメの船が停泊した松浦を序詞に用いた遣新羅使の歌がある(15-3685)が、新羅に派遣される使者としては想起せねばならない故事であったろう。
+執筆者壬生幸子
-68368402009/07/06hoshino.seiji00DSG000194おきながたらしひめのみこと;息長足日女命Okinagatarashihimenomikoto漢風諡号は神功皇后。第14代仲哀天皇の皇后。記では品夜和気命と品陀和気命(第15代応神天皇)の生母とするが、紀では誉夜別皇子の母は来熊田造の祖大酒主の女弟媛とし、オキナガタラシヒメの子は誉田天皇(応神)のみとする。記に息長帯比売命、紀・『新撰姓氏録』、『先代旧辞本紀』に気長足姫尊、播磨国風土記に大帯日売命、常陸国風土記に息長帯比売天皇、万葉集に多良志比咩可尾能弥許等、などと表記される。巻9の一巻を気長足姫尊にあてる書紀の異例の扱いや、常陸国風土記の天皇号使用は、皇統譜上のオキナガタラシヒメの特殊性を示している。記紀によれば、父は開化天皇曾孫のオキナガ宿禰王、母は葛城タカヌカヒメ。記のタカヌカヒメは父系をたどれば天之日矛の六世孫(日矛を一世と数える計世法による)。オキナガタラシヒメという名については、近江国坂田郡に息長の地名があり、息長氏との関係も説かれる一方、長寿充足の意の嘉名といわれる。記紀の神功皇后説話は、(1)熊襲征伐の際に神がオキナガタラシヒメに懸かり新羅征討を教示、従わなかった天皇は死に至る。(2)懐妊しているオキナガタラシヒメが新羅を征討し、帰途に筑紫で太子を出産する。(3)太子の異母兄カゴサカ王・オシクマ王の反逆を平定する。(4)太子とタケウチ宿禰がケヒ大神に参拝する。(5)オキナガタラシヒメとタケウチ宿禰が酒楽歌を唱和する、のプロットをもつ。神功皇后説話は母子神信仰譚の性格をもつが、万葉集の歌はその中核をなす(2)に関わって詠まれ、①怡土の鎮懐石 ②松浦の鮎釣がテーマとされる。①は新羅征討の折り、袖に挿んで鎮懐とした二つの石が怡土郡にあるといい(5-813序)、その霊妙さを讃える(5-813~814)。ただしこの歌の鎮懐は御心を鎮める意である。記紀ではオキナガタラシヒメは出産を延ばすため裳の腰に石を着けて遠征し、その石は伊都に現存するというが、万葉集の憶良の歌からは出産という要素が脱落している。②については序と歌(5-853序、854~863)があるが、記紀によれば新羅征討の際、オキナガタラシヒメは4月に松浦県玉島里の河辺で裳の糸を抜き年魚を釣った。これが土地の女人の風習となって今に至るまで絶えないという。ほかにオキナガタラシヒメの船が停泊した松浦を序詞に用いた遣新羅使の歌がある(15-3685)が、新羅に派遣される使者としては想起せねばならない故事であったろう。195おきながたらしひめのみこと息長足日女命壬生幸子お1
資料ID31804

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