大分類 | 万葉神事語辞典 |
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分野分類 CB | 文学 |
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文化財分類 CB | 学術データベース |
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資料形式 CB | テキストデータベース |
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+項目名 | おおきみはかみにしませば;おほきみはかみにしませば;大君は神にしませば |
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+項目名(旧かな) | おほきみはかみにしませば |
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+表記 | 大君は神にしませば |
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Title | Okimihakaminishimaseba / Okimiwakaminishimaseba |
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テキスト内容 | 大君は神でいらっしゃるので、の意。短歌の上二句の表現として万葉集に6例に見られる。いずれも下三句にうたわれる行為を人為を超えた神ゆえの偉業として称揚し、「大君」を賛美する。対象とされる「大君」は、①天武天皇(2例、19-4260、4261)、②持統天皇(3-235)のほか、天武の皇子の③忍壁皇子(3-235或本)、④長皇子(3-241)、⑤弓削皇子(2-205)である。また、作歌時期は、①が天武朝とみられるほかは持統・文武朝で、②~④は柿本人麻呂の作である。こうした点から、この句は天武天皇に対する畏敬の念に基づいて生み出され、人麻呂の周辺で用いられた律令国家形成期特有の賛美表現と考えられる。もっとも、置始東人の⑤は挽歌の例で、現実の人間を神とたたえた他例とは質を異にする。これを除く4例のうち、初例と目されるのは天武を対象とする①の2首で、これらは753(天平勝宝4)年2月に大伴家持によって記録された伝誦歌である。1首目は大伴御行作、2首目は作者未詳歌と伝えられる。題詞には壬申の乱(672年)平定以後の歌と記され、神ゆえの偉業として馬が腹這う田や水鳥が集まる沼を天皇が都と成したことがうたわれる。一般に題詞をもとに壬申の乱後まもなくの作とされ、浄御原宮の造営にかかわる歌と解されている。ただし、天武朝の初年当時、宮が営まれた飛鳥の地がうたわれたような形状であったとは考えがたいという観点から、この都については684(天武13)年、天武によって宮地が定められ、その後造営、遷都される藤原宮をさすとする見解も提示されている。伝誦歌という性格ともかかわって2首の内実をどのように解するかによって、表現の成立時期についても微妙な問題をはらんでいるが、現実の天皇を神と仰ぐ思想は、養老の「公式令」などに天皇の立場をさして用いられるアキツカミの語によって確認できる。アキツカミはこの世に姿を現している神の意であり、神を祭る者が神になり代わりうるという論理とかかわる語である。そうしたアキツカミの語の確実な初見は、697年に即位した文武天皇の即位の宣命に見られる「現御神(あきつみかみ)と大八嶋国知らしめす天皇」(『続日本紀』)の表現である。令の規定と宣命との関係についてはさまざまな問題を含んでいるが、大宝令以前、令の規定に通じる表現が即位の宣命に見られる事実は、現神(あきつみかみ)としての天皇の立場が天武朝の浄御原令段階で形を成しつつあったことを示唆する。壬申の乱後、天武は律令国家の形成を強力に推し進めるなか、新たな質の君主として、また時代の始祖として認識された。それに伴って天皇は、思想的にも制度的にも天つ神の代理者たる現神として位置づけられたのだと考えられる。この賛辞は、そうした時代の動向と密接にかかわって生み出された、天皇の神格化にかかわる儀礼的な表現であり、従来、天武の専制君主としての絶対性のほか、道教の中核をなす神仙思想の影響などがその契機として指摘されている。この表現は、持統朝には人麻呂によって受け止められ、その内実が深められることになる。とりわけ②については、天皇が神話世界の頂点に位置づけられているとされ、賛辞の聖性を獲得した作として「天皇即神観の短歌的達成」が吉井巌によって指摘されている。折口信夫「宮廷生活の幻想」「天子非即神論」『全集20』(中央公論社)。吉井巌「雷丘の歌」『万葉集の視角』(和泉書院)。福永光司『道教と古代日本』(人文書院)。辰巳正明「人麻呂と天皇即神」『万葉集と中国文学』(笠間書院)。櫻井満「天皇即神の発想と大嘗祭」『万葉集の民俗学的研究』(おうふう)。神野志隆光「神と人」『柿本人麻呂研究』(塙書房)。西條勉「天皇号の成立と王権神話」『東アジアの古代文化』98号(大和書房)。菊地義裕「天皇即神の表現と天武朝」『柿本人麻呂の時代と表現』(おうふう)。 |
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+執筆者 | 菊地義裕 |
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コンテンツ権利区分 | CC BY-NC |
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資料ID | 31785 |
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- | 68349402009/07/06hoshino.seiji00DSG000175おおきみはかみにしませば;おほきみはかみにしませば;大君は神にしませばOkimihakaminishimaseba / Okimiwakaminishimaseba大君は神でいらっしゃるので、の意。短歌の上二句の表現として万葉集に6例に見られる。いずれも下三句にうたわれる行為を人為を超えた神ゆえの偉業として称揚し、「大君」を賛美する。対象とされる「大君」は、①天武天皇(2例、19-4260、4261)、②持統天皇(3-235)のほか、天武の皇子の③忍壁皇子(3-235或本)、④長皇子(3-241)、⑤弓削皇子(2-205)である。また、作歌時期は、①が天武朝とみられるほかは持統・文武朝で、②~④は柿本人麻呂の作である。こうした点から、この句は天武天皇に対する畏敬の念に基づいて生み出され、人麻呂の周辺で用いられた律令国家形成期特有の賛美表現と考えられる。もっとも、置始東人の⑤は挽歌の例で、現実の人間を神とたたえた他例とは質を異にする。これを除く4例のうち、初例と目されるのは天武を対象とする①の2首で、これらは753(天平勝宝4)年2月に大伴家持によって記録された伝誦歌である。1首目は大伴御行作、2首目は作者未詳歌と伝えられる。題詞には壬申の乱(672年)平定以後の歌と記され、神ゆえの偉業として馬が腹這う田や水鳥が集まる沼を天皇が都と成したことがうたわれる。一般に題詞をもとに壬申の乱後まもなくの作とされ、浄御原宮の造営にかかわる歌と解されている。ただし、天武朝の初年当時、宮が営まれた飛鳥の地がうたわれたような形状であったとは考えがたいという観点から、この都については684(天武13)年、天武によって宮地が定められ、その後造営、遷都される藤原宮をさすとする見解も提示されている。伝誦歌という性格ともかかわって2首の内実をどのように解するかによって、表現の成立時期についても微妙な問題をはらんでいるが、現実の天皇を神と仰ぐ思想は、養老の「公式令」などに天皇の立場をさして用いられるアキツカミの語によって確認できる。アキツカミはこの世に姿を現している神の意であり、神を祭る者が神になり代わりうるという論理とかかわる語である。そうしたアキツカミの語の確実な初見は、697年に即位した文武天皇の即位の宣命に見られる「現御神(あきつみかみ)と大八嶋国知らしめす天皇」(『続日本紀』)の表現である。令の規定と宣命との関係についてはさまざまな問題を含んでいるが、大宝令以前、令の規定に通じる表現が即位の宣命に見られる事実は、現神(あきつみかみ)としての天皇の立場が天武朝の浄御原令段階で形を成しつつあったことを示唆する。壬申の乱後、天武は律令国家の形成を強力に推し進めるなか、新たな質の君主として、また時代の始祖として認識された。それに伴って天皇は、思想的にも制度的にも天つ神の代理者たる現神として位置づけられたのだと考えられる。この賛辞は、そうした時代の動向と密接にかかわって生み出された、天皇の神格化にかかわる儀礼的な表現であり、従来、天武の専制君主としての絶対性のほか、道教の中核をなす神仙思想の影響などがその契機として指摘されている。この表現は、持統朝には人麻呂によって受け止められ、その内実が深められることになる。とりわけ②については、天皇が神話世界の頂点に位置づけられているとされ、賛辞の聖性を獲得した作として「天皇即神観の短歌的達成」が吉井巌によって指摘されている。折口信夫「宮廷生活の幻想」「天子非即神論」『全集20』(中央公論社)。吉井巌「雷丘の歌」『万葉集の視角』(和泉書院)。福永光司『道教と古代日本』(人文書院)。辰巳正明「人麻呂と天皇即神」『万葉集と中国文学』(笠間書院)。櫻井満「天皇即神の発想と大嘗祭」『万葉集の民俗学的研究』(おうふう)。神野志隆光「神と人」『柿本人麻呂研究』(塙書房)。西條勉「天皇号の成立と王権神話」『東アジアの古代文化』98号(大和書房)。菊地義裕「天皇即神の表現と天武朝」『柿本人麻呂の時代と表現』(おうふう)。 176おおきみはかみにしませばおほきみはかみにしませば大君は神にしませば菊地義裕お1 |
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