テキスト内容 | 『養老令』によると、采女とは地方豪族の13歳以上30歳以下の娘たちのなかから容姿端麗な者が選ばれ、宮廷で天皇の給仕などにあたった女官である。記紀では雄略天皇条あたりからたくさんの記事が見えることから、5世紀後半あたりから制度として整備されたと考えられる。紀には、童女君という采女が雄略天皇とのあいだに春日大娘皇女を産んで妃になった例や、天智天皇とのあいだに大友皇子を産んだ伊賀采女宅子娘の例などが記載されていることから、たんに女官として仕えるだけに終わらず、天皇の妻ともなり得る立場であったようである。また、万葉集には藤原鎌足が采女の安見児を娶った喜びを詠んだ歌(2-95)があることから、天皇が許せば采女も臣下の妻となる場合もあったようだが、原則的に采女と通ずることは罪であったようで、因幡の八上采女を娶り不敬罪となった安貴王の例が万葉集には見える(4-534~535)。陸奥に派遣された葛城王の怒りを静めた采女(16-3807)の例や、万葉集に歌が残されている駿河采女(4-507、8-1420)と宴席の場でその歌が披露された豊島采女(6-1026~1027)の例から考えると、給仕などのために宮廷に仕えていただけでなく、宴席で歌を詠んだり古歌を誦詠したりすることもあったようである。このような采女がうたわれた例が万葉集に1首だけある(1-51)。飛鳥から藤原京に遷都された後に志貴皇子が詠んだ歌で、「采女の袖吹き返す明日香風」とうたうことで、風にひるがえった采女の袖を幻視しながら遷都後のむなしさをうまく表現した歌である。 |
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