テキスト内容 | ①現実に目の前に見え、現れていること。②正気であること。また嘘や偽りがなく本気であること。①では、「山ながら かくも現(うつ)しく 海ながら しか真(まこと)ならめ」(13-3332)のように、無常なものとしての現世と人間(うつせみと人)に対して、確たるものとして山や海が存していることがいわれている。②では、相聞歌において、多く否定表現をともない、相手に恋い焦がれて「現し心」を失っていることや(12-2376、2792ほか)、恋人と離れている状態の心理が「現しけめやも」(15-3752)と詠まれている。心が日常的、理性的な場(「現(うつ)つ」)から遊離してしまって、正気を失っていることをいったものといえる。そしてこの「現つ」は「夢」と背反する(4-811)。「現し」心を失った者は、「夢」の中での逢瀬を祈念するが、それは、現実での不可能性を、超越的な世界での可能性に賭ける行為といっていいだろう。ところでこの「現し」は、古代の世界観をよくあらわした語ともいえる。神代記の「現しき青人草」は、この地上世界に生きている人民の意であり、雄略記の「現しおみ」(紀に「現人之神」)は、眼前に人間の形で神が姿を現していることを述べている。神や霊魂の活動する幽界に対して、顕界に現れたさまざまな姿が「現し」「顕し」であるといえる。万葉の相聞歌の「うつし」は、それを個の現実的なレベルに引き寄せているが、その背後には、顕界と幽界とを行き来することが可能な、神話的世界が揺曳しているともいえる。「玉の緒の現し心」(2792、3211)など「魂」と関わる表現がとられるのも、そのためであろうか。なお「うつせ(そ)み」の「うつ」もこの「現し」と関わる。幽界に対して、この世、顕界の人間が「うつせみ」であり、それは現世そのものを指すようになる。それは肯定されるべき現実であるとともに、有限の存在の持つはかなさをともなったものともなっていく。 |
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