テキスト内容 | 「うたまいのつかさ」とも。古代宮廷音楽を掌る官司。万葉集巻6に「天平8(736)年冬12月12日、歌儛所(うたまいどころ)の諸王臣子たちが、葛井広成(ふじいのひろなり)の家に集まって宴を催した」時の歌を伝える。その序に「このころ古い舞がさかんになってきた。共に古風な情を尽くし、古歌を唱うべきである。この古曲2篇に唱和をしてもらいたいと2首の歌を詠んだ」とある(6-1011~12)。歌儛所の名は、万葉集のこの1例だけで他の文献には見えない。歌儛所が宮廷音楽を司る機関として、令制の雅楽寮と無縁ではあり得ないが、その関係については同一機関とする説、雅楽寮の一部とする説、臨時に設けられた機関とする説などがあって、必ずしも一定していない。雅楽寮は治部省の管轄下にあって、内外の楽舞の整理や管理、楽人の支配、楽舞の教習等を司った。頭(かみ)以下四等官制に基づく官人のほかに、楽人として歌師、儛師、笛師、唐楽師、高麗楽師、百済楽師、新羅楽師、伎楽師、腰鼓師が置かれていた。その基本的体制は「雅曲正儛(がきょくせいぶ)」(唐楽、高麗楽以下の楽舞を掌る東洋的音楽部)と「雑楽雑舞(ぞうがくそうぶ)」(地方の風俗歌、五節舞、田舞等、日本在来の歌舞を掌る日本音楽部)とに分かれていた。折口信夫は、この日本音楽部とも称すべき部署が歌儛所に相当するといい、「此役所(雅楽寮)の主眼は外国音楽にあつたので、日本音楽部、即、大歌所は付属のやうな形であつた」「一つ処に両部を備へて居た為に、大歌所のことをも歌儛所で表すことの出来たものらしい」(「万葉集のなり立ち」)と説いた。これに対して林屋辰三郎は、東洋音楽を重視する気運の高まりのなか、日本的歌舞に郷愁を感ずる人々が、日本音楽部の独立を目的として宮中に臨時に設けられたものが歌儛所であったという(「古代芸能とその継承」)。また、荻美津夫は、地方に伝習されていた歌舞や風俗の歌舞を余興的に教習するための、雅楽寮とは別個の準公的な常設の機関とする(「古代音楽制度の変遷」)。万葉集の「古儛盛(こぶさか)りに興(おこ)り」とは、天平初年ころの古舞復興をいうのであろう(例えば、天平6年朱雀門下の歌垣に奏された難波曲(なにわぶり)などの古舞)。歌儛所にはそうした古典的な歌舞音曲が集められ、伝習、教習されていたのであろう。後の大歌所に直結するような機能も既に有していたと見るべきであろう。折口信夫「万葉集のなり立ち」『全集1』(中央公論社)。林屋辰三郎「古代芸能とその継承」『中世芸能史の研究』(岩波書店)。荻美津夫「古代音楽制度の変遷」『日本古代音楽史論』(吉川弘文館)。 |
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