いわれ

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名いわれ;いはれ;磐余・石村
+項目名(旧かな)いはれ
+表記磐余・石村
TitleIware
テキスト内容現在の奈良県桜井市池之内、橿原市池尻町の付近。「石村」「石寸」とも表記される。万葉集に「つのさはふ磐余(いはれ)も過ぎず泊瀬山(はつせやま)いつかも越えむ夜(よ)はふけにつつ」(3-282)とあることから「磐余」が飛鳥・藤原から泊瀬への往来途上の地であったことを示す。また上ツ道の延長上に石上衝(いそのかみのちまた)、山田道の延長上に軽衢(かるのちまた)、横大路の東に海石榴衝(つばきちのちまた)、西に当麻衝(たいまのちまた)があり、これら四つの衝の「宗教的に閉塞された空間の中心域」に「磐余」が存在したと推定される(『日本古代史事典』)。「磐余」の旧名は片居(かたゐ)、片立(かたたち)(神武即位前紀己未年2月)で、式内石村山口神社には磐余山がある。地名は、「大きに軍集(いくさびとつど)ひて其の地に満(いは)めり。因りて号(な)を改め磐余と為す」(神武即位前紀同年同月)の「満(いは)む=充満する」を由来とする。あるいは磯城(しき)の八十梟師(やそたける)が「屯聚居(いはみゐ)」(人が居住していること)の土地を、神武天皇の勝利により磐余邑と名付けたことから「磐余」の呼称が生まれたとも言う(神武即位前期同年同月)。神武天皇は、「日本の磐余の立派な男子」を意味する(新編『日本書紀』頭注)国風諡号、神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)天皇と称せられた。また、神宮皇后が誉田別皇子(ほむたわけのみこ)(後の応神天皇)を立太子させたのが「磐余椎桜宮(いはれわかさくらのみや)」(履中天皇も同地同名を宮都とする)であり、清寧天皇の「磐余甕栗宮(いはれわかくりのみや)」、継体天皇の「磐余玉穂宮(いはれたまほのみや)」、用明天皇の「磐余池辺双槻宮(いはれいけのへのなみつきのみや)」など多くの宮都が営まれた。さらに用明天皇陵である「磐余池上陵(いはれいけのえのみささぎ)」は、履中天皇によって作られた「磐余池」(履中紀2年11月条、翌3年冬11月条の「磐余市磯池(いはれいちしきのいけ)」を正式名称とする)のほとりにあったと考えられる。紀には、成長しても言葉を発せられなかった本牟智別王(ほむちわけのおう)が、倭(やまと)の市師池(磐余池)で鵠(くぐい)を見て初めて声を出したという記述があり(垂仁紀)、万葉集には大津皇子の詠んだ「百伝(ももづた)ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ」(3-416)の挽歌が詠まれる。これらの例は、「磐余」自体が死と再生の儀礼に関わる神聖な場所であったことを意味するとともに、王権儀礼に関わる聖地としての意味を有していたことを想定させる。一方「磐余」は「つのさはふ、つぬさはふ」(3-282)の被枕詞としても用いられる。「つのさはふ」には「蔦の這っている石」とする説、あるいは「つの」が萌え出した植物の芽を遮るものとして「萌え出した植物を遮(さえぎ)るような石」と解する」説があるが、いずれの場合も「磐=石」の一致によったものと考えられる。折口信夫「万葉集事典」『全集11』(中央公論社)。『日本古代史事典』大和書房。和田萃「磐余地方の歴史的研究―磐余の諸宮―磐余池に関連して―」『奈良県史跡名称天然記念物調査報告28 磐余・池ノ内古墳郡』(奈良県教育委員会)。井手至氏「ツノサハフ・シナテル・シナタツ―枕詞の解釈をめぐって―」『万葉』39号。
+執筆者阿部りか
コンテンツ権利区分CC BY-NC
資料ID31748
-68312402009/07/06hoshino.seiji00DSG000138いわれ;いはれ;磐余・石村Iware現在の奈良県桜井市池之内、橿原市池尻町の付近。「石村」「石寸」とも表記される。万葉集に「つのさはふ磐余(いはれ)も過ぎず泊瀬山(はつせやま)いつかも越えむ夜(よ)はふけにつつ」(3-282)とあることから「磐余」が飛鳥・藤原から泊瀬への往来途上の地であったことを示す。また上ツ道の延長上に石上衝(いそのかみのちまた)、山田道の延長上に軽衢(かるのちまた)、横大路の東に海石榴衝(つばきちのちまた)、西に当麻衝(たいまのちまた)があり、これら四つの衝の「宗教的に閉塞された空間の中心域」に「磐余」が存在したと推定される(『日本古代史事典』)。「磐余」の旧名は片居(かたゐ)、片立(かたたち)(神武即位前紀己未年2月)で、式内石村山口神社には磐余山がある。地名は、「大きに軍集(いくさびとつど)ひて其の地に満(いは)めり。因りて号(な)を改め磐余と為す」(神武即位前紀同年同月)の「満(いは)む=充満する」を由来とする。あるいは磯城(しき)の八十梟師(やそたける)が「屯聚居(いはみゐ)」(人が居住していること)の土地を、神武天皇の勝利により磐余邑と名付けたことから「磐余」の呼称が生まれたとも言う(神武即位前期同年同月)。神武天皇は、「日本の磐余の立派な男子」を意味する(新編『日本書紀』頭注)国風諡号、神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)天皇と称せられた。また、神宮皇后が誉田別皇子(ほむたわけのみこ)(後の応神天皇)を立太子させたのが「磐余椎桜宮(いはれわかさくらのみや)」(履中天皇も同地同名を宮都とする)であり、清寧天皇の「磐余甕栗宮(いはれわかくりのみや)」、継体天皇の「磐余玉穂宮(いはれたまほのみや)」、用明天皇の「磐余池辺双槻宮(いはれいけのへのなみつきのみや)」など多くの宮都が営まれた。さらに用明天皇陵である「磐余池上陵(いはれいけのえのみささぎ)」は、履中天皇によって作られた「磐余池」(履中紀2年11月条、翌3年冬11月条の「磐余市磯池(いはれいちしきのいけ)」を正式名称とする)のほとりにあったと考えられる。紀には、成長しても言葉を発せられなかった本牟智別王(ほむちわけのおう)が、倭(やまと)の市師池(磐余池)で鵠(くぐい)を見て初めて声を出したという記述があり(垂仁紀)、万葉集には大津皇子の詠んだ「百伝(ももづた)ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ」(3-416)の挽歌が詠まれる。これらの例は、「磐余」自体が死と再生の儀礼に関わる神聖な場所であったことを意味するとともに、王権儀礼に関わる聖地としての意味を有していたことを想定させる。一方「磐余」は「つのさはふ、つぬさはふ」(3-282)の被枕詞としても用いられる。「つのさはふ」には「蔦の這っている石」とする説、あるいは「つの」が萌え出した植物の芽を遮るものとして「萌え出した植物を遮(さえぎ)るような石」と解する」説があるが、いずれの場合も「磐=石」の一致によったものと考えられる。折口信夫「万葉集事典」『全集11』(中央公論社)。『日本古代史事典』大和書房。和田萃「磐余地方の歴史的研究―磐余の諸宮―磐余池に関連して―」『奈良県史跡名称天然記念物調査報告28 磐余・池ノ内古墳郡』(奈良県教育委員会)。井手至氏「ツノサハフ・シナテル・シナタツ―枕詞の解釈をめぐって―」『万葉』39号。

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