テキスト内容 | 神々が天から降臨するために使用した磐のように堅固な船。角麻呂歌には、天の探女が石船に乗って高津に停泊したと詠み込まれている(3-292)。天の探女は紀の訓注に「阿麻能佐愚謎(あまのさぐめ)」とある。石船に乗ったと記されないが、記とともに「天の」と冠されていることから、天下りしてきた存在であることが知られる。探女はサグリメとして、探偵のように遣われた女神だったのであろう。釈聖観の『神趾名所小橋車』巻上(大阪府立中之島図書館蔵)は、摂津国風土記の記事として、天稚彦が天下りした際、天の探女も石船に乗ってこの地に下り停泊したので、高津と呼ばれる地名起源を紹介する(『新全集』風土記参照)。また大伴家持は、751(天平勝宝3)年に守として赴任していた越中国から帰京する途次で、興を覚えて作った侍宴応詔歌の中に、大和の国を天雲に石船を浮かべ、艫にも舳先にも櫂をいっぱい通して漕ぎながら国見をしつつ降臨し、天下を平定し治め続けてきた日継の皇子として天皇を讃える(19-4254)。ただし記は、天津日子番能邇々芸命が天の石位を離れ、天の八重にたなびく雲を押し分けて天の浮橋に立ち、筑紫の日向の高千穂に降臨したと記すが、天の石船に乗って降臨したとまで記していない。紀には神武天皇の即位前記に、都とすべき地を求める中で、塩土老翁が「東に美地有り。青山四周れり。其の中に、亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」と語ったとあるが、家持歌の「山川を 岩根さくみて 踏み通り 国求ぎしつつ」(20-4465)との表現は、むしろ神武天皇が兄五瀬命と相談しながら都を探し求めた記の内容に近いといえる。つまり家持歌の内容は記紀とも異り、大伴氏の始祖伝承が用いられたか、家持自身が独自の神話世界を歌に表した可能性が見出される。記紀には、「石船」のほかにも「天の鳥船」「天磐樟船」等が語句が認められる。 |
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