テキスト内容 | 古代から中世にかけて天照大神の御杖代(みつえしろ)として伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王・女王を「斎王」という。「斎宮」はその居所を指すが、斎王自身をも指すようになった。斎王の起源は垂仁朝の倭姫命とされる。本来、宮中の「大殿」に天皇が祀っていた天照大神・倭大国魂二神を、「神の勢(みいきほひ)を畏り」て、前者を大和の笠縫邑に遷したのが崇神紀6年の出来事であった。この時、御杖代として立ったのが豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)であった。時は移り、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天皇から豊鋤入姫命にかわって天照大神の奉斎を命じられた。倭姫命は天照大神を新たに鎮座させる場所を求めて、近江、美濃を経て伊勢に至ったところ、大神がここに居を定めることを求めたので、社を造り、伊勢神宮を創始したとされる。また、倭姫命が五十鈴川のほとりに斎宮を建てて奉仕したことから、初代の伊勢斎王とされるのである。ちなみに、この倭姫命が日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征説話で、伊勢神宮に立ち寄った日本武尊に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を与えたとされる。斎王が制度として整備されたのは天武朝の大伯皇女からといわれ、天皇の代替わりや近親の喪によって交替することとされた。大伯皇女も同母弟である大津皇子の謀反事件があって斎王を退いていることが紀に記されており、また、その際に詠んだとされる歌が万葉集に残されている(2-163~164)。さて、『続日本紀』701(大宝元)年8月4日条にみられる「斎宮司」が大きく刷新せられた契機となったのが聖武天皇(任命当時は皇太子)の娘井上女王が721(養老5)年9月11日「斎内親王」に任命されたことである。井上女王の群行はこの記事から6年後の727(神亀4)年9月3日のことであるが、それに先立つ8月23日には「斎宮寮」が拡充されたことをうかがわせる記事が『続日本紀』にみられる。これら、一連の記事を斎宮寮の設置記事とみる見方もあるが、田中卓がいうように、この時期を斎宮寮の拡大整備の時期とみるほうが穏当であろう。『延喜式』をもとに斎王の制度について記しておくと、斎王は卜定されると宮中の初斎院(しょさいいん)、続いて嵯峨野の野宮(ののみや)で約2年間の潔斎を行う。その後、監察送使や斎宮寮官人・女官らを従えて伊勢に群行した。なお、群行のルートは時代とともに変遷したと考えられるが、こうした群行が倭姫命が天照大神を託されて各地をさまようという神話の再現となっていることはいうまでもなかろう。斎王は、神話の再現を体験することによって、その始原へと回帰し、斎王としての資格を身に帯びることになるのである。斎王は、多気の斎王宮(斎宮)にいて、斎宮忌詞(いみことば)を用いるなど仏事や不浄を避けて潔斎に努め、伊勢神宮の三節祭(6月、11月の月次(つきなみ)祭と9月の神嘗(かんなめ)祭)には神宮に赴いて太玉串(ふとたまぐし)を奉った。後醍醐天皇の祥子内親王で中絶した。田中卓「伊勢神宮の創祀と発展」『田中卓著作集』4(国書刊行会)。 |
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