テキスト内容 | 市は物資の交換・交易のため、多くは交通の要衝(「ちまた」)の地の広場に営まれた。市が営まれた場には、神霊の依代(よりしろ)としての椿・槻・橘・桑などの木があり、祭祀・歌垣・饗宴などの行事の場となった。物資のみならず人の交流の場であり、上代における恋の場としての機能を持っていた。令制では関市令によって規定され、藤原京・平城京には東西の市が市司(いちのつかさ)の監督の下におかれ、難波にも難波の市が設置された。万葉集には6例みられる。「軽(かる)の市 我が立ち聞けば」(2-207)の「軽の市」は、現在の橿原市大軽にあった市である。「軽の衢(ちまた)」(推古紀)、「軽諸越之衢」(『霊異記』)とあって、この市は道が交差する「チマタ」に発達したものと考えられる。この歌の作者柿本人麻呂は、亡妻の面影を求めて市を徘徊するのである。「海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢に立ち平(なら)し結びし紐(ひも)を解(と)かまく惜(お)しも」(12-2951)、「海石榴市の八十の衢に逢(あ)へる児(こ)や誰(だれ)」とうたわれるのは、現在の桜井市金屋にあった「海石榴市」である。武烈即位前紀に歌垣の舞台として伝わり、敏達・用明・推古紀にも記録がある。この「海石榴市」での歌は、歌垣における所作や求愛をうたった歌と思われる。「海石榴市」という名称は、そこに椿が植わっていたということによるのであり、その木が同時に市のシンボルのなったということであろう。そして、その木を神の依代(よりしろ)として祀り、歌垣を行ったのであろう。「東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで」(3-310)にも植木がうたわれ、この歌の題詞は「門部王(かどべのおほきみ)、東の市の樹(うゑき)を詠みて作る歌」とあって、市の木が重視されていたことがわかる。ここにうたわれた「東の市」は、「西(にし)の市(いち)にただひとり出(い)でて」(7-1264)の「西の市」とともに、平城京の令制に定められた市である。「東の市」は左京八条三坊に、「西の市」は右京八条二坊にそれぞれ推定されており、これを裏付ける木簡も出土している。関市令によれば、市は午(うま)の刻に開いて日没に閉店。店舗ごとに標識が立てられ、値段が三等級に分けられて取引されていた。折口信夫「古代生活に見えた恋愛」『全集1』。西郷信綱「市と歌垣」『古代の声』(朝日新聞社)。前田晴人「市と文学」『古代文学講座(三)』(勉誠社)。 |
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