テキスト内容 | 国名。島根県東部の地。記紀の神話では、スサノオノミコト~オオクニヌシノカミ(オオナムチノカミ)を中心とする、いわゆる出雲神話が記載されている。スサノオの場合には有名なヤマタノオロチ退治の神話が記され、オオクニヌシノカミの場合には「国作り」「国譲り」の神話、出雲大社の起源等が記されている。また天皇の時代に入ってからも、例えば記の場合、第11代垂仁天皇の時に、皇子ホムチワケノミコトに出雲大神が祟りをなし、そのため皇子は大人になっても口をきくことができず、大神の教えにしたがってその宮を修造し、大神を拝むことによって口がきけるようになったという話を載せている。また、第12代景行天皇の時、皇子のヤマトタケルが九州のクマソを征伐に出かけた帰りに出雲に寄り、イズモタケルを倒す話を載せている。紀には、第10代崇神天皇の御世の話として、天皇家に対する態度をめぐり、出雲の振根と出雲の飯入根という兄弟が争う話があり、その後出雲の神が児童に取り憑いて託宣を下し、祭祀をさせた話などを載せている。中央の神話・説話において、なぜ出雲がこのように重要視されるのか、その理由は明確ではない。大和朝廷から見て日の没する方角にあるから、死の国のイメージで見られたとか、戌亥の隅にあたるゆえ、神霊の吹きだまりという位置にあったなどの方位によるとする説、軍事的に大きな力を持っていたからとする軍事大国説、信仰によってまとまりをもち、それが大きな勢力となっていたとする宗教大国説、出雲という地が、日本海側の各地域、もしくは朝鮮半島などと盛んに交流し、独自の文化圏を形成していたとする説など、様々に論じられている。「イヅモ」の語源については、「出る雲」説、または「出る藻」説がある。文字表記の面から見て「出雲」といえばすぐに「雲」をイメージしてしまうが、古くは生命力の象徴である多くの藻が出ずる国である「イヅモ」と認識された時代があったのかも知れない。なお、出雲国では大化改新後も国造制が残存し、代替わりの際には朝廷からの任命を受けるのだが、それに伴う儀式が2年にわたって行なわれたことが延喜式等の資料によって分かる。その際朝廷に対して唱えられる詞章の出雲国造神賀詞も『延喜式』巻8の祝詞に残されている。国造の称号は出雲大社の祭祀長を示すものとして現在に至るまで続いており、出雲氏の子孫によって世襲されている神田典城『日本神話論考 出雲神話篇』(笠間書院)。多田一臣「「八雲立つ」歌謡を考える」『万葉歌の表現』(明治書院)。 |
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