テキスト内容 | 兵庫県南部の瀬戸内海にある島。北は明石海峡。難波津から航路で西国に向かう際、明石海峡を過ぎると大海になり、風景が一変する。都人の見慣れぬ海人も目撃するようになり(6-935、15-3627等)鄙に来たことを実感する(4-509)。しかも明石海峡は潮の流れが激しい(7-1180)。大和から離れる寂しさに加え、乗船者は一層不安になる。その時、傍らに見えるのが淡路島である。この島は畿内と鄙との境界であるので、旅人は手向けをしながら通過する。だから淡路は海神が作った特別な島となる(3-388)。そのような危険地帯では、旅人自身の安全を守ってくれる産土神とそれを祭る家族を思い出す(15-3720、17-3894等)。恋しいと詠んだり(3-389)、恋人の霊力がこもった紐を見る(3-251)ことによって安全性が確保されたのであろう。淡路島を詠んだ歌には都から離れる往路の歌が多い。風景が一変すること、境界の島であることに加えて、「あはぢ」に「逢はじ」を連想していたようである。そのことは「淡路」が「否み妻」(拒否)・「辛荷島」(辛い)(6-942)とともに詠まれることからも窺える。一方、朝廷にとってみれば、淡路は海の世界を司る海神の坐す島であり、神聖な島であった。歴代天皇はしばしば猟を行った。允恭紀では獲物が多く見えるのに猪鹿が一頭も捕れなかったという伝承が載る。原因は海神の祭祀が不十分であったと記す。深海の玉をもって祭ると獲物が捕れたという。淡路は、天皇と海神とが交信する場所であった。逆に言えば、淡路の神との交信が恙なく果たされれば、海産物も豊富にとれて、献上物も確保できることになる。だから「御食つ国」の代表として淡路は表現される(6-933)。岡田精司によれば、天皇は、農耕社会の「食す国」と、海産物を献上する「御食つ国」とを掌る。伊勢とともに「御食つ国」であった淡路は、政治的にも特別な島であった。 鈴木佐内「淡路の瀬戸と明石の瀬戸」『歌謡とは何か上巻』(和泉書院)。 上谷内勉「巻四・五〇九の「淡路」「粟島」に関する一考察」『美夫君志』64号 。森脇一夫「淡路・四国―淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐―〔万葉地理の分担研究〕」『国文学』7-6。岡田精司『古代王権の祭祀と神話』(塙書房)。 |
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