テキスト内容 | 墳墓に遺体を埋葬する間に、その遺体に対して行われる儀礼。ないしは、その儀礼を行う場。長屋王の挽歌に「大王の 命畏み 大殯の(大荒城乃) 時にはあらねど 雲隠ります」(3-441)とあり、一般に万葉集においては「殯」に「あらき」の訓をあてるのを通例とする。この万葉仮名表記では「き」に「城」の文字があてられているが、これは回りに柵や壁を巡らして仕切られた空間ということが意識された表記と見てよいであろう。「あらき」の語源については明確ではないが、当該の「大荒城」の文字使いから考えて、新しく出現したもの表す形態素「あら」に、柵と柵の内側の空間を表す形態素「き」が結合したものと見てよい。つまり、死者のために新たに作られた空間をいう語と推察することができる。それは、遺体を埋葬までの間、安置する空間をつくるからであろう。この「あらき」が、建造物としてしつらえられた場合、「あらきのみや」と呼ばれるのである。「殯」という漢字は、「歹」すなわち死者を、「賓」すなわち大切な客とする意味であり、死者を客として持て成すという意味である。つまり、埋葬を前に死者に対して、酒食や歌舞を奏上し、大切な客として持て成すことをいうものと理解できる。したがって、「き」の内側は、死者の霊魂がこもる場所だったと考えられる。紀用命天皇元年5月条には、敏達天皇の殯宮が描かれているが、その殯宮には「宮門」があり、「兵衛」が固くこれを守っていたことが記されている。「兵衛」は令制用語を借りた潤色としても、殯宮には門があり、それが厳重に守られている場所として認識されていたことは間違いない。そこでは、天皇の妻たちを中心とした死者儀礼が行われていたものと考えられる。ただし、これらの建造物、すなわち天皇や皇子の場合の殯宮は、どんなに立派なものであっても仮設的建造物であり、埋葬後撤去されるということを忘れてはならない。仮設的建造物であるがゆえに、逆に「常宮」という表現でその建造物が祝福されるのである(2-196、2-199)。また、「あらき」が設営されている期間は次期の大王や天皇、さらには族長など決定する期間であるから、一時的政治空白期間となり、後継者をめぐる争いが繰り返されていた。その一つが大津皇子事件である。古墳の造営期間と、その時々の政治的力学関係から関係から、「あらき」の設営期間は変わるようである。万葉集では、日並皇子、高市皇子、明日香皇女の3人に対して、柿本人麻呂が「殯宮之時に作る歌」を制作している。皇子と皇女の殯宮は、おそらく生前の居所である皇子宮において営むことが許されなかったのであろう。宮都内で殯宮を営むことができるのは、天皇のみであって、皇子と皇女の殯宮は宮都の外で営まれたものと考えられる。高市皇子挽歌では皇子が薨去した香具山宮の様子を「木綿花の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を〈一云ふ、「さす竹の 皇子の御門を」〉 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白たへの 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの い這ひ伏しつつ」(2-199)と歌っている。つまり、まず逝去した宮では、宮に仕える人びとが白い麻衣を着て奉仕し、匍匐礼が行われていることがわかる。それらの儀礼を経て、百済の原を通って城上(きのへ)の殯宮に遺体が遷されたことを「言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいませて あさもよし 城上の宮を 常宮と 高くしたてて 神ながら 鎮まりましぬ」と歌っている。万葉集の殯宮挽歌の抒情はおおむね死せる皇子・皇女ゆかりの宮から遺体を遷すところにある。おそらく、それは皇子・皇女であるがゆえに、宮都内のゆかりの宮で殯宮を営むことを許されなかったことに由来するのであろう。天皇のみしか、宮都内で殯宮を営むことを許されなかったのは、死穢の問題が存在したからであると推察される。つまり、宮都内においては天皇以外の死穢は避けられるのであり、宮都外で殯宮を営まざるを得なかったのであろう。和田萃「殯の基礎的考察」『日本古代の儀礼と祭祀・信仰』上。上野誠「殯宮儀礼の空間」『古代日本の文芸空間』。 |
---|