テキスト内容 | 記紀神話に登場する太陽神の天照大神のこと。人麿の日並皇子殯宮挽歌に、天地初発の時に、天の河原に神々が集まり、天上と地上の統治場所をどの神に分かつかを決定する会議が行われ、「天照 日女之命〔一云、指上 日女之命〕 天乎婆 所知食登(天照らす 日女の命 〔一に云ふ、指し上る 日女の命〕 天をば 知らしめすと)」(2-167) のように詠まれる。天照大神の誕生は、記によると火の神を生んだイザナミの命が黄泉の国に去り、後を追った夫のイザナギの命が禁忌を犯し、妻の腐乱死体を見て逃げ出し、日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎをした。その時に、左の目から天照らす大御神、右の目から月読の命、鼻から建速須佐の男の命が生まれたとある。紀でも同様の話が載るが、別伝では、イザナギ・イザナミの神は、天下に主たる神を生もうとして日の神を生んだという。これを「大日孁貴」と名付けた。本文注によると、この神は「於保比屡咩能武智(おほひつめのむち)」といい、一書には「天照大神」といい、また「天照大日孁尊」というとある。この神は光り輝く美しい神で、国の内に照り通るほどであったという。さらに一書では、イザナギの神は天下を統治すべき貴い子を生もうと考え、左の手に白銅鏡を持ち、そこに生まれたのが「大日孁尊」で、右の手に持った時に生まれたのが「月弓尊」で、首を廻した時に生まれたのが「素戔鳴尊」だという。「オホヒルメノムチ」とは、オホ(大)ヒ(太陽)ル(助詞のノ)メ(女)ムチ(尊貴)であり、「偉大なる太陽の女神」の意味である。国内を照らす神であるから、明らかに太陽神である。また、三神の統治について、記では、イザナギの命が、天照大神は高天の原を、月読の命は夜の食国を、速須佐の男は海原を統治せと命じる。紀では、イザナギ・イザナミの二神は大日孁尊がとても優れていたのでとても喜び、天に送って天上のことを任せたという。次ぎに月の神(月弓尊・月夜見尊・月読尊ともいう)を生み、光が美しいので日に配して統治するように命じ、天に送った。次に蛭児を生み、足が弱かったので葦船に乗せて棄てた。次に素戔鳴尊を生み、勇敢だが泣いてばかりいるので、根の国に放逐したという。一書では、大日孁尊と月弓尊は、ともに質性明麗であるので、天地を照らすことを命じ、素戔鳴尊は性質が乱暴であるので根の国に下したという。このように誕生した三神の中で、天照大神は、以後に皇祖神としての性格を持ち、葦原中つ国の統治に関して重要な役割を果たして行く。「日孁」は「ヒのメ」であり、「孁」は『説文解字』に「孁は、貴い女の字なり」とあることから、この文字が用いられ、太陽の女神とするのが、今日の通説である。ヒルメは、自然神としての太陽が、そのまま神として信仰されているのである。この神を、ウズ(尊貴)の子だというのと呼応している。一方、折口信夫は、ヒルメを「日の妻」と解釈する。いわば、日の神に奉仕する巫を指すというのである。ヒルメは太陽神そのものか、太陽を祀る巫女かは、さらに検討を必要とするであろう。「日女」(日の女神)という表記からは、太陽信仰の原始性を保ち、太陽の女神信仰は、松村武雄などの比較神話学からアジア洲の民族に見られるという指摘がある。また、筑紫甲真の指摘するように、『延喜式』神名帳に見える各地のアマテル神社の存在は、自然神としての太陽信仰の形成を考えさせる。人麿の「天照らす日女の命」というのは、この「天照大日孁尊」の系統の神話から出たものであろう。当時は、まだ天照大神の名称は通称とはならず、記紀の成立を待ち統一されたものと思われる。さらに、日女の命の天上統治についても、人麿神話では異なりを見せる。人麿は天地初発の時に、天の河原に神々が集まり、天上と地上の統治場所をどの神に分かつかを決定する会議が行われ、そこで日女の命が天上を統治し、日の皇子が地上統治のために神下しされたという。これは記紀には見えない、新たな神話である。天の河原に神々が集い分治のための会議を開くというのは、極めて人間くさい。それは、草壁皇子の没後に、重臣たちが皇位継承の方法をめぐり持統宮廷の会議で論議した(『懐風藻』葛野王伝)のを彷彿とさせる。人麿の神話で、日女の命も、日の皇子も、天上の神々の合議によって分治が決定されたとするのは、天上と地上を相似形として捉え、天上の類型はそのまま地上の類型であるとする思想によるのであろう。三神を生んだ神の命令ではなく、天上のすべての神々の合議の上に決定された方法は、地上の人々の重要な決定の方法だというのである。それは単なる神話ではなく、何かを示唆する、新たな神話の登場であったといえる。折口信夫『折口信夫全集 古代研究 民俗学篇』(中央公論社)。松村武雄『日本神話の研究 第二巻』(培風館)。筑紫甲真『アマテラスの誕生』(角川新書)。西條勉『古事記の系譜学』(笠間書院)。辰巳正明『折口信夫』(笠間書院)。 |
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