テキスト内容 | 天武天皇の宮殿であった飛鳥清御原宮の美称。柿本人麻呂作の高市皇子殯宮挽歌に「明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 恐くも 定めたまひて」(2-199)とあらわれる1例を見るのみ。「みかど」は「東の 大き御門を 入りかてぬかも」(2-186)や『延喜式』祝詞祈年祭に「朝者御門開奉、夕者御門閇奉氐(あしたはみかどをひらきまつり、ゆふべはみかどをたてまつりて)」とあるように、もと文字通り宮殿の門そのものを指す語だった。そこから派生して、「君はしも 多くいませど 行き向かふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を」(13-3324)、「我が御門 千代とことばに 栄えむと」(2-183)などのように宮殿全体を指す例や、「大君の 遠の朝廷(みかど)(朝庭)と しらぬひ 筑紫の国に」(5-794)のように政庁を指す例、またよく知られているような「闕(弥加止)(みかど)急(にはか)に汝を召す」(『霊異記』下巻第九縁・群書類従所収校本『日本霊異記』訓釈)のごとき天皇を指す例があらわれてくる。当該語句では宮殿全体を指すとみるべきだ。その宮殿には「天つ」ということばが冠される。「天津神(あまつかみ)」(『延喜式』祝詞六月晦大祓)「天津罪(あまつつみ)」(同)や「天津日継(あまつひつぎ)」(記上巻)がいずれも神代の天上世界にその由来をもち、あるいは「天の」という語形ではあるが「天の香具山」が実際に天から降ってきたという伝承をもつ(前田家本『釈日本紀』巻七天香山条所引・伊予国風土記逸文伊予郡)ことを参照するならば、やはり「天つ御門」も、この時期に「天皇」号が確立したことなどと関わる、天武皇統の神格化の意図の下になされた讃美表現として読まれなければならない。なお天皇神格化ということで言えば、万葉集には「大君は神にしませば」という表現が6例みられ、いずれもその対象が天武と持統あるいはその皇子たちに向けられていることで注目されるが、この6例のうち4例が宮殿の造営を讃美する表現となっている。当該の表現とも関連して考えられるべきだろう。 |
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