テキスト内容 | 天に生命力が満ち満ちている様子。天は天上、足は充足の意。天智天皇の聖躬不予(神聖な体が病にかかり危篤となること)の時の倭大后は「天の原振り放け見れば大君の御命は長く天足らしたり」(2-147)と歌っている。天の原は古代人の聖地の認識の一つ。葦原、海原、高天の原、国原など、ある重要な場所・異界をハラと呼ぶ。橿原・藤原、真神原、浄御原には宮都が造営された。人麿の高市皇子挽歌に、真神の原に天武天皇が皇居を建てたこと、壬申の乱には天皇霊が和蹔の原の行宮に降りたこと、高市皇子は御門の原に殯宮を建てたことが歌われる。こうしたハラの認識があり、天上には天の原が存在すると考えた。その天の原の中でも最高府が高天の原。この天の原は一方では「天の海」(7-1068)を生み出したと思われる。天上世界は幾つかの層として認識されていた。天の原は目の届く範囲であるから、振り仰ぐと天皇の霊魂が見えたというのである。もちろんそれは霊能者の目である。歌の内容から見ると、天の原には天皇の生命力が満ち満ちていて、天に充足しているというように、生命の延長を願う呪術的な予祝歌である。天皇の生命の短長は、高天の原の意志によることから、天皇の去ろうとする霊魂が天の原に満ちていることを予祝として歌い、まだ去るべき段階ではないとして霊魂を留めようとし、その霊魂を復(タマヨバヒ)によって身体に付着させようとするのである。このような死以前の不予の歌が伝えられていることは貴重である。天皇や皇后の重病を不予といい、紀には「皇后体不予。則為皇后誓願之、初興薬師寺。仍度一百僧。由是、得安平。是日、赦罪」(天武紀)、「為天皇体不予之、三日、誦経於大官大寺・川原寺・飛鳥寺。因以稲納三寺。各有差」(同上)、「為天皇体不予、祈于神祇」(同上)のように見える。持統皇后が病にかかり天武天皇は薬師寺建立を誓願し百人の僧を出家させ、これにより平安を得たこと、また罪人を赦したことが見える。続いて天武天皇の不予の折には、大官大寺等の寺に経を誦ませ、稲を納めたといい、また危篤となり神祇に祈ったという。仏教の加護を得ようとするのは新しい方法であり、神祇に祈るのが古い方法であったと思われる。天智天皇聖躬不予の時の歌は、もう1首倭大后に「青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも」(2-148)があり、これも天皇の霊魂が青々とした木々の立つ木幡山の上を行き来していて、目には見えるが直接に逢うことができないのだということから、倭大后の目には天皇の霊魂が見えていることが知られる。この後、天皇崩御の歌から御陵退散の歌に至るまで後宮の女性たちによって挽歌が歌われて行くのであり、ここに女の挽歌が存在したことを西郷信綱「柿本人麿」(『詩の発生詩における原始・古代の意味』未来社)が論じている。不予に始まる女の挽歌は旧俗にあるものと思われ、死者の管理を女性が行い、そこでは女性らが霊魂と向き合い、また死者を慰める呪歌を歌い、死者への予祝と悲嘆の交じる哀歌が歌われていたことを示唆している。 |
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