テキスト内容 | ①倭国の異称。蜻島・秋津嶋。②やまと(大和・倭)に掛かる枕詞。①は大和をあきづ島と呼ぶ理由として、雄略記に次のような伝承がある。ある時、天皇が吉野へ狩りに行き、腰掛けに座っていると、虻が来て腕に食いついた。そこにトンボが来て虻を喰い、飛び去った。それで天皇は「手のこむらに虻が取りついて、その虻を蜻蛉(あきづ)が早速に喰らい、こうして蜻蛉を名に顕そうとした。それで、そらみつ大和の国を蜻蛉島というのだ」のように歌ったので、ここを阿岐豆野(あきづの)というと伝える。これは地名起源伝承であるが、歌の内容からは吉野の一地名である阿岐豆野が元にあり、それが大和全体を示すあきづ島へと展開したことが知られる。蜻蛉を地名に付けたのは、蜻蛉にある種の呪力があったからであろう。あきづは奈良県吉野の宮滝付近に秋津があり、その名の連想から蜻蛉が導かれたと考えられる。また、蜻蛉は秋に群れをなして空を飛ぶことから、その繁殖力への信仰が存在したと考えられる。②は万葉集では枕詞として機能し、舒明天皇が香具山に登り、国見をした時の歌に「うまし国そ あきづ(蜻)島 大和の国は」(1-2)と見える。天皇が天の香具山に登り国見をすると、国原には煙が立ち海原には鴎が飛び交い、すばらしい国だ、蜻蛉の島である大和の国はと歌う。この蜻島は枕詞であるが、枕詞本来の呪言の働きをもっている。国見は古来より王の行う春の予祝の行事であった。以後に詠まれる蜻蛉島も、長歌謡に「蜻島倭之国」(13-3250)「秋津嶋倭」(13-3333)と見え、恋愛に関する叙事歌である。一方、万葉末期の大伴家持は「蜻島山跡国」(20-4465)と倭国の始まりに立ち返り、大伴氏の歴史を歌う。あきづ島の語が吉野を起源とする神事歌謡に現れたのは、古く吉野も王権の要衝の地であったといえる。あきづ島の語が儀礼歌や叙事歌に生きていたのは、国の起源へと回帰するところにあった。 |
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