【解説】毛利輝元書状集

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+解説毛利輝元書状集 [貴-1696]

〈解題〉

本学所蔵「毛利輝元書状集」は六通の文書からなり、一巻に軸装されている。その内訳は、

1. 天正五年正月十一日付毛利輝元加冠状(縦28.3糎×横46.9糎)
2. 天正十六年正月四日付毛利輝元補任状(縦28.4糎×横43.0糎)
3. 元亀二年三月十日付毛利輝元判物(縦26.8糎×横46.2糎)
4. (元亀元年)十二月十八日付毛利輝元書状(縦26.9糎×横32.3糎)
5. (元亀三年)閏正月四日付毛利輝元書状(縦26.9糎×横45.1糎)
6. (天正四年ヵ)六月二十八日付毛利輝元書状(縦26.8糎×横43.9糎)
となっている。宛所の呼称は飯田小三郎(1・2)、菅田亀石(3)、菅田小三郎(5・6) などまちまちであるが(4は宛所欠)、これらは同一人物と考えられる。

発給者の毛利輝元(1553-1625)は、西日本最大の戦国大名で安芸の国人から飛躍的に版 図を拡大した元就の嫡孫にあたる。父隆元が早世したため家督を継ぎ、元就がその後見役と なった。元就没後は叔父の吉川元春・小早川隆景の補佐を受け、織田信長の将羽柴秀吉と対 峙し、存亡の危機を迎えながらも本能寺の変によって救われる。秀吉が信長の後継者となっ た後は戦国大名の中でも早くから秀吉に接近し、天正十三(1585)年の四国攻めや同十五年の 九州攻めにも積極的に参加し、豊臣政権下において確かな地位を確保するに至った。官位は 従三位中納言、安芸国を本拠とし、秀吉から羽柴の名字を与えられたので「羽柴安芸中納言」 と称される。石高は百十二万石で、徳川家康に次ぐ大大名として、秀吉死去時には「五大老」 にも任命されている。慶長五(1600)年、関ヶ原合戦においては西軍の総大将となるが戦場に は赴かず、大坂城にて豊臣秀頼を警護。戦後、領国保全を条件に家康の誘いに応じて大坂城 を退去したが、その後領地没収の沙汰を受ける。一族の吉川広家の奔走により、かろうじて 長門・周防両国の領有が許された。失意の輝元は隠居・出家し「宗瑞」と称するが、実権は 手放さず、徳川政権下での毛利氏存続を図っていく。

「毛利輝元書状集」は「毛利輝元自筆書状集」とともに昭和56(1981)年に本学図書館が 購入したもので、元々は毛利家臣飯田家に伝来したものである。実際、江戸享保期に成立し た『萩藩閥閲録』(巻百四十五)には③から⑥まで四通の文書が収録されているから、その時 点までは飯田家に保管されていたと考えられる。以下、個別に検討を加える。

1 の加冠状は、偏諱の「元」字を飯田小三郎に許したもの。小三郎は『閥閲録』では実名 を元宣とする。このような加冠状は、毛利家内で非常に多くみられるもので、有力家臣の多 くが「元」や「就」の偏諱を受けているが、これは毛利氏の出自が安芸の一国人に過ぎない という点と密接に関連していよう。元来同格、または地理的に縁の薄かった者たちを配下に 編成していく上で、効果的な手法と位置付けられていたと思われる。なお、この加冠状は『閥 閲録』には収録されていない。

2 の補任状は、これも毛利家内では多く発給されている。ここでは飯田小三郎元宣に対し て、仮名の小三郎を改め三郎左衛門尉を称することを許しているが、実際の受領名を許可す る場合も多い。もちろん公式な官職ではないが、偏諱授与とともに、戦国大名毛利氏の家中 統制の有力な方策の一つであった。なお、この補任状も『閥閲録』未収録である。

3 は元亀二(1571)年の安堵状で、菅田亀石に知行の相続を許したものである。「父三郎左 衛門尉」とあることから、菅田亀石は「三郎左衛門尉」という人物の実子であることが判明 する。『閥閲録』によれば、菅田亀石と飯田元宣は同一人物である。またその父は菅田三郎 左衛門尉宣政という。

4 は宛所を欠く。後に裁断されたと思われるが、『閥閲録』には「菅田所へ 輝元」とあ るから、もとは切封であろう。本文冒頭の「三郎左衛門事、去年於立花用立候、誠不便之至 候」から、実父の三郎左衛門宣政が「立花」において討死したことが窺われる。「立花」は 九州博多近辺にある立花山城のことであろう。この地をめぐっては、毛利氏と大友氏との間 で度々戦いが繰り広げられているので、その中で宣政は討死したと思われる。なおこの書状 の年次については、②が元亀二年三月付けで三郎左衛門尉の跡継ぎとして菅田亀石に相続を 認めたものであることを考えると、その前年の元亀元(1570)年とすべきであろう。

5 は閏正月四日付で輝元が菅田小三郎元宣に宛てた書状。正月が閏月なのは元亀三(1572) 年と天正十一年(1583)年、よって年次はどちらかに絞られる。そして、①で天正五(1577) 年時には小三郎元宣が菅田ではなく飯田を称していることから、この文書は元亀三年に特定 できる。内容的には「草津」という地名が出てくることが注目される。この地は安芸国の広 島湾に面した古くからの良港であった。城(草津城)も築かれていたが、「至其元」とある ことから、菅田小三郎が草津城に在番していたことが窺われる。草津城代は毛利家重臣で水 軍の将児玉就方だったから、小三郎はその与力として毛利水軍に属していた可能性が高い。

6 は輝元が菅田小三郎元宣に対して京都へ「差上」ることを許したもの。年次の特定は難 しいが、手掛かりは小三郎元宣が菅田名字を称していることと本文中の「今度京都差上」と いう文言であろう。①では天正五年正月時点には小三郎が名字を飯田としているので、この 文書は天正四年以前のものである可能性が高い。そうなると、「京都差上」とは平和的な上 洛を意味するものではない。織田信長による将軍足利義昭の京都追放と輝元による義昭の庇 護、そして義昭から輝元への信長に対する軍事発動の要請との関係が想起されよう。義昭が 毛利領に逃れてきたのは天正四(1576)年であることを踏まえると、文書の年次はその年であ る可能性が高いように思えるが、確実とまでは言えないので「天正四年ヵ」としておく。な お、「一跡事、不可有相違候」とは、いまだ菅田を称している小三郎元政に、飯田へと名字 を変えることを許可するものであろう。これを受けて、①では飯田名字で呼ばれているので ある。

〈参考〉

・秋山伸隆『戦国大名毛利氏の研究』(吉川弘文館 1998年)
+登録番号(図書館資料ID)貴1696
所有者(所蔵者)國學院大學図書館
コンテンツ権利区分CC BY-NC-ND
資料ID144074

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