【解説】日本書紀神代巻抄 乾・坤

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+解説日本書紀神代巻抄 清原宣賢著・吉田梵舜自筆 [貴60-61]

〈外題〉「神乾(坤)抄」 (左肩書題簽。「不出」と墨書。)
〈内題〉「日本書紀」
〈巻冊〉2冊
〈体裁〉袋綴(四つ目綴)
〈書写年代〉慶長11年(1606)
〈表紙寸法〉縦30.6糎×横25.8糎
〈書入・貼紙〉貼紙あり。朱引、朱点など書込あり。
〈奥書〉【本奥書】無年記。大永六年清原宣賢。天文四年卜部兼右など(以上上巻)。天文三年卜部兼右。無年記清原宣賢(以上下巻)。
【書写奥書】乾「右神書以卜氏累家秘本遂書功但校合等及/数度中々不可有他見尤明鏡證本也/于時慶長比 九 十九 {神龍院/梵舜〔花押〕}/〈私云今度兼致自筆以家本墨点付云々元和之比〉」。坤「右神代上下之抄當家不秘説/輙勿許外見連々以透遂写功/畢〈又云予重而校合再見也下巻家本宣賢自筆也證本云々也〉/慶長十一年二月十九日 梵舜〔花押〕」。
〈蔵書印〉「「宝玲文庫」「隠顕蔵」
〈解題〉

本書は、清原宣賢による『日本書紀』神代巻の注釈『日本書紀抄』(宣賢抄)を、安土桃山時代・江戸時代前期の神道家で僧侶の梵舜が書写したもの。宣賢は、吉田(卜部)神道を創始した吉田兼倶の三男で、清原宗賢の養子となり家督を継いだ。号は環翠軒であり、兼倶亡き後、吉田神道相伝の活動の中に『日本書紀』の注釈もあった。はじめは兼倶の神代巻注釈(兼倶抄)をもとに宣賢抄(先抄本)を作成するが、後に宣賢次男で吉田兼満の養子とした吉田兼右に、『日本書紀』注釈を伝授すべく新たな宣賢抄を作成した(後抄本)。この様子は、本書上巻の本奥書に「家本云」として「先年雖令抄出為譲与竹鶴丸(吉田社預愚息也)重加琢磨書之」とある通りであり、宣賢自筆の後抄本は天理図書館に蔵されている。本書にはこれに続けて天文四年の兼右による奥書も転写されており、「右抄者樞取諸家聞書 環翠軒{宗尤俗/名宣賢}始新作/之」とあることからも兼右は宣賢の新作としての後抄本の作成経緯と意義を理解していたことである。後抄本は、先抄本と異なる点が多いが、最たることは吉田家点をほどこした『日本書紀』本文を併記していることにあるである。本文を有した後抄本は、宣賢による完成稿なるゆえに、吉田家のみならず清原家においても書写継承されている。

本書の書写者である梵舜は兼右の次男であり、兄は神道管領長上の吉田兼見である。梵舜は、兼倶創建の神竜院住職でもあったので神竜院とも通称した。梵舜は古典や神道書の書写・校合を行い、後陽成天皇に『古事記』『旧事本紀』を献上している。後陽成天皇による勅版『日本書紀神代巻』の開版にも、兼見・梵舜が携わっている。したがって、本書は血脈からも吉田家に伝来・継承された一本であり、注釈内容のみならず『日本書紀』本文にも価値が認められる。加えて本書は、宣賢自筆本に比して貼紙や書き入れも多く、吉田家の家学として『日本書紀』注釈の情報を多く保持しているといえる。

〈参考〉

・小林千草『清原宣賢講「日本書紀抄」本文と研究』(勉誠出版 2003年)

・渡邉卓「清原宣賢「日本書紀抄」の注釈法と伝播―諸本の比較を通して」(『神道宗教』222・223 2011年)
企画展アドレス1http://museum.kokugakuin.ac.jp/special_exhibition/detail/2021_nihonsyoki.html
+登録番号(図書館資料ID)貴 60 61
資料ID144059
所有者(所蔵者)國學院大學図書館
-144058 37 2020/11/18 r.teshina 【解説】日本書紀神代巻抄 乾・坤 【解説】日本書紀神代巻抄 乾・坤 貴 60 61 12 030 日本書紀神代巻抄 清原宣賢著・吉田梵舜自筆 [貴60-61]

〈外題〉「神乾(坤)抄」 (左肩書題簽。「不出」と墨書。)
〈内題〉「日本書紀」
〈巻冊〉2冊
〈体裁〉袋綴(四つ目綴)
〈書写年代〉慶長11年(1606)
〈表紙寸法〉縦30.6糎×横25.8糎
〈書入・貼紙〉貼紙あり。朱引、朱点など書込あり。
〈奥書〉【本奥書】無年記。大永六年清原宣賢。天文四年卜部兼右など(以上上巻)。天文三年卜部兼右。無年記清原宣賢(以上下巻)。
【書写奥書】乾「右神書以卜氏累家秘本遂書功但校合等及/数度中々不可有他見尤明鏡證本也/于時慶長比 九 十九 {神龍院/梵舜〔花押〕}/〈私云今度兼致自筆以家本墨点付云々元和之比〉」。坤「右神代上下之抄當家不秘説/輙勿許外見連々以透遂写功/畢〈又云予重而校合再見也下巻家本宣賢自筆也證本云々也〉/慶長十一年二月十九日 梵舜〔花押〕」。
〈蔵書印〉「「宝玲文庫」「隠顕蔵」
〈解題〉

本書は、清原宣賢による『日本書紀』神代巻の注釈『日本書紀抄』(宣賢抄)を、安土桃山時代・江戸時代前期の神道家で僧侶の梵舜が書写したもの。宣賢は、吉田(卜部)神道を創始した吉田兼倶の三男で、清原宗賢の養子となり家督を継いだ。号は環翠軒であり、兼倶亡き後、吉田神道相伝の活動の中に『日本書紀』の注釈もあった。はじめは兼倶の神代巻注釈(兼倶抄)をもとに宣賢抄(先抄本)を作成するが、後に宣賢次男で吉田兼満の養子とした吉田兼右に、『日本書紀』注釈を伝授すべく新たな宣賢抄を作成した(後抄本)。この様子は、本書上巻の本奥書に「家本云」として「先年雖令抄出為譲与竹鶴丸(吉田社預愚息也)重加琢磨書之」とある通りであり、宣賢自筆の後抄本は天理図書館に蔵されている。本書にはこれに続けて天文四年の兼右による奥書も転写されており、「右抄者樞取諸家聞書 環翠軒{宗尤俗/名宣賢}始新作/之」とあることからも兼右は宣賢の新作としての後抄本の作成経緯と意義を理解していたことである。後抄本は、先抄本と異なる点が多いが、最たることは吉田家点をほどこした『日本書紀』本文を併記していることにあるである。本文を有した後抄本は、宣賢による完成稿なるゆえに、吉田家のみならず清原家においても書写継承されている。

本書の書写者である梵舜は兼右の次男であり、兄は神道管領長上の吉田兼見である。梵舜は、兼倶創建の神竜院住職でもあったので神竜院とも通称した。梵舜は古典や神道書の書写・校合を行い、後陽成天皇に『古事記』『旧事本紀』を献上している。後陽成天皇による勅版『日本書紀神代巻』の開版にも、兼見・梵舜が携わっている。したがって、本書は血脈からも吉田家に伝来・継承された一本であり、注釈内容のみならず『日本書紀』本文にも価値が認められる。加えて本書は、宣賢自筆本に比して貼紙や書き入れも多く、吉田家の家学として『日本書紀』注釈の情報を多く保持しているといえる。

〈参考〉

・小林千草『清原宣賢講「日本書紀抄」本文と研究』(勉誠出版 2003年)

・渡邉卓「清原宣賢「日本書紀抄」の注釈法と伝播―諸本の比較を通して」(『神道宗教』222・223 2011年) 1

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