【解説】前九年合戦絵巻

大分類図書館デジタルライブラリー
中分類奈良絵本・絵巻物関係
小分類前九年合戦絵巻
分野分類 CB歴史学
文化財分類 CB図書
資料形式 CBテキストデータベース
+解説前九年合戦絵詞 [貴4219]

〈外題〉前九年合戦画巻(函題)、前九年合戦畫巻(題簽題)
〈内題〉なし
〈巻冊〉1巻1軸
〈体裁〉巻子装
〈製作年代〉宝暦14年(1764)
〈法量〉縦38.4糎×横1205.6糎(これとは別に表紙は縦38.4糎×横39.6糎)
〈書入・貼紙〉なし
〈奥書〉此前九年合戦繪まき物は本出松加賀守殿文庫ニ有て/ひと巻にはとゝのはてそれ▽▽に見へたるを乞もとめて是を/猶写せしむる序つまひらかならすといへとも其画すかたに/したかひみたりに装潢をくわへ一軸になすのみ/酒井雅楽頭忠恭
右之書付有之雅楽頭殿取持ニ而有之を予乞求て写之/寶暦十四甲申年四月廿日/従五位下行内蔵大允藤原光淳 「光淳之印」   * ▽▽=踊り字
〈蔵書印〉題簽に二個あり(丸印、角印)
〈翻刻〉

『前九年合戦絵詞』には国立歴史民俗博物館本(国指定重要文化財)系統と東京国立博物館本系統があるが、この絵巻は前者に属する。奥書にあるように、前者の系統から加賀の前田家本が制作され、そこから分かれた酒井雅楽頭(うたのかみ)忠恭(ただずみ)本があり、さらにそれを宝暦十四年(1764)に画所預・藤原(土佐)光淳が模写したのが本作(國學院大學図書館本)である。前九年合戦絵詞の諸伝本には詞書を欠く、絵のみの作例が少なくないが、この系統もそうである。以下、前田家本、酒井雅楽頭本、土佐光淳本(國學院本)について略述する。

前田家本は現在所在不明。ただし、歴博本がすなわち前田家旧蔵本であった可能性がある。というのは、歴博本の旧蔵者は溝口禎次郎(東京帝室博物館列品課長、号宗文)であるが(日本絵巻大成解説等)、「溝口家に入る以前の伝来は不明であるが、加賀地方より出たと伝えられており、綱紀の記した「加賀宰相蔵」の「前九年之記」がこれにあたる可能性もある」という〔小口雅史・遠藤祐太郎(2010)〕。前田家本のことは『訂正増補考古両譜』の引用する『本朝画図品目』『倭錦』にも出ており、「加賀藩前田家に『前九年合戦絵詞』が伝わっていたのは確かなようである」〔小口・遠藤(同上)〕。

次に酒井雅楽頭本は、その前田家本を模写したものという。現在は所在不明。上の識語にあるとおり、土佐光淳本(國學院本)が酒井本を忠実に模写したものと考えて、以下そこから類推する。酒井本は前田家本(歴博本)を忠実に模写したものではなく、欠損部分を補ったり剥落部分を補正したりした〈復元模本〉というべきものであったと考えられる。歴博本と酒井本は錯簡(順序の違い)を生じており、歴博本(一部に五島本)の料紙を基準にして言うと酒井本は第一紙~第七紙、第十四紙~十七紙(ここに詞書21行分の欠脱)、五島本の第一紙~第二紙、第十八紙~第二十二紙(ここに詞書12行分の欠脱)、第九紙~第十二紙、第二十三紙前半(第二十三紙後半~第二十五紙に相当する絵の欠脱)、第二十六紙~第二十七紙となっている。酒井忠恭は雅楽頭(うたのかみ)家と呼ばれる系統の酒井氏で、生没は宝永七年(1710)~安永元年(1772)。享保十六年(1731) に前橋藩を相続し、同時に従五位下雅楽頭に叙せられている(22歳)。ゆえに「酒井雅楽頭忠恭」の識語をもつ酒井本が制作されたのは、それ以降のこととなる。寛延二年(1749)に忠恭は前橋藩から姫路藩に転封されているが、酒井本の制作は前橋時代ではなく姫路時代の可能性が高い。『後三年合戦絵詞』も岡山・鳥取などこの時代の中国地方の大名間で著名であったからである。すると、酒井本の制作は、姫路転封の寛延二年(1749)~左近衛少将に任じられ「雅楽頭」でなくなる宝暦十三年(1763)の間(おおむね1750年代とその前後)と絞りうるかもしれない。

次に土佐光淳本(國學院本)は、酒井本を忠実に模写したものと考えられる。土佐光淳の生没は享保十九年(1734)~明和元年(1764)。享年31歳。土佐派の絵師で、土佐光芳の長男。延享元年(1744)に絵所預となる。本作の識語に「宝暦十四年甲申年四月廿日」(1764)の制作とあり、光淳はこの年の十二月六日に没しているので、急逝する七か月前の作品ということになる。

〈参考〉

・続日本絵巻大成17『前九年合戦絵詞 平治物語絵詞 結城合戦絵詞』(中央公論社、1983年9月)所収「解説」

・小口雅史・遠藤祐太郎「尊経閣文庫所蔵『桑華害志』にみえる 『前九年合戦絵詞』『後三年合戦絵詞』関係記事」(「法政史学」73号、2010年3月)
+登録番号(図書館資料ID)貴4219
資料ID143178
所有者(所蔵者)國學院大學図書館
-絵物語(テーマ検索)
143177 37 2020/11/18 r.teshina 【解説】前九年合戦絵巻 【解説】前九年合戦絵巻 貴4219 02 011 前九年合戦絵詞 [貴4219]

〈外題〉前九年合戦画巻(函題)、前九年合戦畫巻(題簽題)
〈内題〉なし
〈巻冊〉1巻1軸
〈体裁〉巻子装
〈製作年代〉宝暦14年(1764)
〈法量〉縦38.4糎×横1205.6糎(これとは別に表紙は縦38.4糎×横39.6糎)
〈書入・貼紙〉なし
〈奥書〉此前九年合戦繪まき物は本出松加賀守殿文庫ニ有て/ひと巻にはとゝのはてそれ▽▽に見へたるを乞もとめて是を/猶写せしむる序つまひらかならすといへとも其画すかたに/したかひみたりに装潢をくわへ一軸になすのみ/酒井雅楽頭忠恭
右之書付有之雅楽頭殿取持ニ而有之を予乞求て写之/寶暦十四甲申年四月廿日/従五位下行内蔵大允藤原光淳 「光淳之印」   * ▽▽=踊り字
〈蔵書印〉題簽に二個あり(丸印、角印)
〈翻刻〉

『前九年合戦絵詞』には国立歴史民俗博物館本(国指定重要文化財)系統と東京国立博物館本系統があるが、この絵巻は前者に属する。奥書にあるように、前者の系統から加賀の前田家本が制作され、そこから分かれた酒井雅楽頭(うたのかみ)忠恭(ただずみ)本があり、さらにそれを宝暦十四年(1764)に画所預・藤原(土佐)光淳が模写したのが本作(國學院大學図書館本)である。前九年合戦絵詞の諸伝本には詞書を欠く、絵のみの作例が少なくないが、この系統もそうである。以下、前田家本、酒井雅楽頭本、土佐光淳本(國學院本)について略述する。

前田家本は現在所在不明。ただし、歴博本がすなわち前田家旧蔵本であった可能性がある。というのは、歴博本の旧蔵者は溝口禎次郎(東京帝室博物館列品課長、号宗文)であるが(日本絵巻大成解説等)、「溝口家に入る以前の伝来は不明であるが、加賀地方より出たと伝えられており、綱紀の記した「加賀宰相蔵」の「前九年之記」がこれにあたる可能性もある」という〔小口雅史・遠藤祐太郎(2010)〕。前田家本のことは『訂正増補考古両譜』の引用する『本朝画図品目』『倭錦』にも出ており、「加賀藩前田家に『前九年合戦絵詞』が伝わっていたのは確かなようである」〔小口・遠藤(同上)〕。

次に酒井雅楽頭本は、その前田家本を模写したものという。現在は所在不明。上の識語にあるとおり、土佐光淳本(國學院本)が酒井本を忠実に模写したものと考えて、以下そこから類推する。酒井本は前田家本(歴博本)を忠実に模写したものではなく、欠損部分を補ったり剥落部分を補正したりした〈復元模本〉というべきものであったと考えられる。歴博本と酒井本は錯簡(順序の違い)を生じており、歴博本(一部に五島本)の料紙を基準にして言うと酒井本は第一紙~第七紙、第十四紙~十七紙(ここに詞書21行分の欠脱)、五島本の第一紙~第二紙、第十八紙~第二十二紙(ここに詞書12行分の欠脱)、第九紙~第十二紙、第二十三紙前半(第二十三紙後半~第二十五紙に相当する絵の欠脱)、第二十六紙~第二十七紙となっている。酒井忠恭は雅楽頭(うたのかみ)家と呼ばれる系統の酒井氏で、生没は宝永七年(1710)~安永元年(1772)。享保十六年(1731) に前橋藩を相続し、同時に従五位下雅楽頭に叙せられている(22歳)。ゆえに「酒井雅楽頭忠恭」の識語をもつ酒井本が制作されたのは、それ以降のこととなる。寛延二年(1749)に忠恭は前橋藩から姫路藩に転封されているが、酒井本の制作は前橋時代ではなく姫路時代の可能性が高い。『後三年合戦絵詞』も岡山・鳥取などこの時代の中国地方の大名間で著名であったからである。すると、酒井本の制作は、姫路転封の寛延二年(1749)~左近衛少将に任じられ「雅楽頭」でなくなる宝暦十三年(1763)の間(おおむね1750年代とその前後)と絞りうるかもしれない。

次に土佐光淳本(國學院本)は、酒井本を忠実に模写したものと考えられる。土佐光淳の生没は享保十九年(1734)~明和元年(1764)。享年31歳。土佐派の絵師で、土佐光芳の長男。延享元年(1744)に絵所預となる。本作の識語に「宝暦十四年甲申年四月廿日」(1764)の制作とあり、光淳はこの年の十二月六日に没しているので、急逝する七か月前の作品ということになる。

〈参考〉

・続日本絵巻大成17『前九年合戦絵詞 平治物語絵詞 結城合戦絵詞』(中央公論社、1983年9月)所収「解説」

・小口雅史・遠藤祐太郎「尊経閣文庫所蔵『桑華害志』にみえる 『前九年合戦絵詞』『後三年合戦絵詞』関係記事」(「法政史学」73号、2010年3月) 1

この資料に関連する資料

PageTop