【解説】大嘗会悠紀殿之図 

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+解説大嘗会之記 [貴1625]

〈外題〉大嘗会之記
〈内題〉大嘗会
〈巻冊〉1冊
〈体裁〉袋綴(かぶせ綴)
〈書写年代〉江戸時代中期
〈表紙寸法〉縦14.0糎×横21.0糎
〈奥書〉ナシ
〈蔵書印〉「高倉蔵書之印」
〈備考〉「大嘗会悠紀殿之図〈主基同之〉/貞享四丁卯歳/十一月十六日」(縦45.7糎×横32.4糎、袋入)および絵図七枚((1)縦28.2糎×横41.1糎、(2)縦28.0糎×横41.8糎、(3)縦28.2糎×横41.1糎、(4)縦28.5糎×横41.2糎、(5)縦28.4糎×横41.2糎、(6)縦28.5糎×横41.2糎、(7)縦28.6糎×横40.0糎)添付
〈解題〉

主に近世の大嘗祭に関する史料群で、冊子1冊と絵図8枚から成る。衣紋道の家である高倉家の旧蔵史料で、冊子は天皇と大嘗祭奉仕者の着装を中心に記述されている。

冊子冒頭には、貞享4年度(東山天皇、1687)のものと想定される大嘗祭次第(常御所→清涼殿→廻立殿→悠紀殿→廻立殿→主基殿)が、特に天皇の着装を注記しつつ記されている。続いて、帛御装束・御斎服の委細、さらに『人車記』(『兵範記』)仁安元年条(六条天皇)、仁安3年条(高倉天皇)、『世俗浅深秘抄 上』の引用、大嘗祭貞享4年度・元文3年度(桜町天皇)の着装の事、元文度大嘗祭の卯日の次第が記されている。

この後、遊紙などをはさんで、元文5年(1740)と寛保元年(1741)の新嘗祭(桜町天皇)の次第も記されている。復興後の大嘗祭は、中御門天皇をはさみ、桜町天皇の元文3年大嘗祭にて再々興されたが、桜町天皇の代には、大嘗祭などと同様中世に中絶していた新嘗祭の天皇親祭も元文5年に復興していた。本史料は、貞享4年・元文3年の大嘗祭と共に、元文5年に復興した新嘗祭の様子も記されている点に特徴がある。

さらに、遊紙をはさみつつ年号や改元の事、中国における冕服や日本における衣服の濫觴、装束などの有職を、諸史料を引用して記載し、末尾には懺法講(18世紀中頃)や、僧正・僧都・阿闍梨などの沿革も記している。これらは、大嘗祭を中心とした様々な史料を書写し、かつ書写してあった史料をまとめて1冊に仕立てたものと推測される。

本史料の特徴は、大嘗宮悠紀殿内の図を含む大嘗祭関係の絵図が計8枚添付されていることである。大嘗宮悠紀殿内の図「大嘗会悠紀殿之図〈主基同之〉/貞享四丁卯歳/十一月十六日」は、貞享4年の付記があり、中世で一度断絶した大嘗祭が復興した、東山天皇大嘗祭における悠紀殿内の敷設であると想定される。神殿内外陣における関白、采女、宮主の座や、内陣における天皇の御座と思われる半畳、神食薦、中央の神(寝)座として薄青の紙が貼られ、それぞれの畳の縁の色も記されている。また、神座の上に置かれた衾や、神座の脇に置かれた御櫛・御扇や和妙案と荒妙案などの調度品として橙の紙が貼られている。特に中央の神座(寝座)については、大きさの異なる畳を模した薄青紙が重ねて貼られてめくられるようになっており、また坂枕を立体的に傾斜状に作成するなど、丁寧に再現されている。神(寝)座脇の半畳(御座)と神食薦(神饌を供える)は、伊勢神宮の方角である東南向きに敷設されていたことがわかる。

他に添付された絵図は、(1)大嘗宮図、(2)紫宸殿前大嘗宮図(廻立殿含む)、(3)大嘗会略図(廻立殿図)、(4)大嘗会由奉幣之図略(吉田の斎場所)、(5)国郡卜定之図、(6)荒見河祓之図、(7)大嘗宮西側図である。図(7)には「貞享四年十一月三日 大嘗宮造立日 日時勘文幸徳井考之」の文で始まる大嘗宮造立の様子が付記されている。それぞれの絵図には「貞享」と記載があり、貞享度の大嘗祭関連儀と大嘗宮の様子を知ることができる。

本史料によると、貞享4年東山天皇の時に復興した大嘗祭では、紫宸殿前庭に大嘗宮を造り、紫宸殿東側に廻立殿を設け、神饌を準備する「膳屋(かしわや)」は大嘗宮西側に月華門を南北に挟んで設けられていたようである。

〈参考〉

・武部敏夫「貞享度大嘗会の再興について」(『書陵部紀要』4、昭和29年3月)

・皇學館大学神道研究所編『大嘗祭の研究』(皇学館大学出版部、昭和53年4月)

・同編『続・大嘗祭の研究』(皇学館大学出版部、平成元年6月)
+登録番号(図書館資料ID)貴-1625-2
資料ID143140
所有者(所蔵者)國學院大學図書館
-143140 37 2020/11/18 r.teshina 【解説】大嘗会悠紀殿之図  【解説】大嘗会悠紀殿之図  貴-1625-2 01 026 大嘗会之記 [貴1625]

〈外題〉大嘗会之記
〈内題〉大嘗会
〈巻冊〉1冊
〈体裁〉袋綴(かぶせ綴)
〈書写年代〉江戸時代中期
〈表紙寸法〉縦14.0糎×横21.0糎
〈奥書〉ナシ
〈蔵書印〉「高倉蔵書之印」
〈備考〉「大嘗会悠紀殿之図〈主基同之〉/貞享四丁卯歳/十一月十六日」(縦45.7糎×横32.4糎、袋入)および絵図七枚((1)縦28.2糎×横41.1糎、(2)縦28.0糎×横41.8糎、(3)縦28.2糎×横41.1糎、(4)縦28.5糎×横41.2糎、(5)縦28.4糎×横41.2糎、(6)縦28.5糎×横41.2糎、(7)縦28.6糎×横40.0糎)添付
〈解題〉

主に近世の大嘗祭に関する史料群で、冊子1冊と絵図8枚から成る。衣紋道の家である高倉家の旧蔵史料で、冊子は天皇と大嘗祭奉仕者の着装を中心に記述されている。

冊子冒頭には、貞享4年度(東山天皇、1687)のものと想定される大嘗祭次第(常御所→清涼殿→廻立殿→悠紀殿→廻立殿→主基殿)が、特に天皇の着装を注記しつつ記されている。続いて、帛御装束・御斎服の委細、さらに『人車記』(『兵範記』)仁安元年条(六条天皇)、仁安3年条(高倉天皇)、『世俗浅深秘抄 上』の引用、大嘗祭貞享4年度・元文3年度(桜町天皇)の着装の事、元文度大嘗祭の卯日の次第が記されている。

この後、遊紙などをはさんで、元文5年(1740)と寛保元年(1741)の新嘗祭(桜町天皇)の次第も記されている。復興後の大嘗祭は、中御門天皇をはさみ、桜町天皇の元文3年大嘗祭にて再々興されたが、桜町天皇の代には、大嘗祭などと同様中世に中絶していた新嘗祭の天皇親祭も元文5年に復興していた。本史料は、貞享4年・元文3年の大嘗祭と共に、元文5年に復興した新嘗祭の様子も記されている点に特徴がある。

さらに、遊紙をはさみつつ年号や改元の事、中国における冕服や日本における衣服の濫觴、装束などの有職を、諸史料を引用して記載し、末尾には懺法講(18世紀中頃)や、僧正・僧都・阿闍梨などの沿革も記している。これらは、大嘗祭を中心とした様々な史料を書写し、かつ書写してあった史料をまとめて1冊に仕立てたものと推測される。

本史料の特徴は、大嘗宮悠紀殿内の図を含む大嘗祭関係の絵図が計8枚添付されていることである。大嘗宮悠紀殿内の図「大嘗会悠紀殿之図〈主基同之〉/貞享四丁卯歳/十一月十六日」は、貞享4年の付記があり、中世で一度断絶した大嘗祭が復興した、東山天皇大嘗祭における悠紀殿内の敷設であると想定される。神殿内外陣における関白、采女、宮主の座や、内陣における天皇の御座と思われる半畳、神食薦、中央の神(寝)座として薄青の紙が貼られ、それぞれの畳の縁の色も記されている。また、神座の上に置かれた衾や、神座の脇に置かれた御櫛・御扇や和妙案と荒妙案などの調度品として橙の紙が貼られている。特に中央の神座(寝座)については、大きさの異なる畳を模した薄青紙が重ねて貼られてめくられるようになっており、また坂枕を立体的に傾斜状に作成するなど、丁寧に再現されている。神(寝)座脇の半畳(御座)と神食薦(神饌を供える)は、伊勢神宮の方角である東南向きに敷設されていたことがわかる。

他に添付された絵図は、(1)大嘗宮図、(2)紫宸殿前大嘗宮図(廻立殿含む)、(3)大嘗会略図(廻立殿図)、(4)大嘗会由奉幣之図略(吉田の斎場所)、(5)国郡卜定之図、(6)荒見河祓之図、(7)大嘗宮西側図である。図(7)には「貞享四年十一月三日 大嘗宮造立日 日時勘文幸徳井考之」の文で始まる大嘗宮造立の様子が付記されている。それぞれの絵図には「貞享」と記載があり、貞享度の大嘗祭関連儀と大嘗宮の様子を知ることができる。

本史料によると、貞享4年東山天皇の時に復興した大嘗祭では、紫宸殿前庭に大嘗宮を造り、紫宸殿東側に廻立殿を設け、神饌を準備する「膳屋(かしわや)」は大嘗宮西側に月華門を南北に挟んで設けられていたようである。

〈参考〉

・武部敏夫「貞享度大嘗会の再興について」(『書陵部紀要』4、昭和29年3月)

・皇學館大学神道研究所編『大嘗祭の研究』(皇学館大学出版部、昭和53年4月)

・同編『続・大嘗祭の研究』(皇学館大学出版部、平成元年6月) 1

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