麦生砲台場跡

名称ヨミムギョウホウダイバアト
年代藩政時代
指定年月日市・平成5年4月28日
解説江戸幕府は寛永11年(1634)外国往来の禁止、並びにキリスト教の禁止を強化したことにより、盛岡藩では外国船監視のため領内随所(20箇所)に浦番所(「遠見番所、宮番所」とも称した。)を設け、見張りに当たらせた。また、係役人が巡回してその万全を期していた。
「盛岡藩雑書」に正保元年(1644)4月26日浦番改 久慈之内大尻崎、同所麦生崎とあり、沿岸警備に麦生崎は重要な場所とされていた。
寛政4年(1792)ロシヤの船が来航したことから、異国船の出没に備え、沿岸防備として遠見番所を陣屋とし、砲を備え台場化したとされる。
藩政時代に作成された陣屋についての古絵図(八戸市立図書館蔵 年代不詳)には、久慈湊、麦生に陣屋があり、それぞれに「討場」として記載されている。麦生崎には「討場」が4箇所あったとされているが、そのすべての場所は確認されていない。
陣屋前「討場」は、崩れかけた土塁がその跡をとどめている。久慈湊、半崎の台場跡は消滅し、市内で残っている唯一の台場跡である。
材質・形状:土塁。近くに狼煙(のろし)穴と推定される穴がある。久慈湾に面した標高約60mの断崖上の平坦面に所在する。
参考『久慈市の指定文化財』,『久慈文化財マップ』36

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