久慈城跡

名称ヨミクジジョウアト
指定年月日市・昭和48年10月8日
解説久慈城は別名八日館、通称新町館ともよばれ、久慈川沿いに開けた平野を一望する標高約80m、平地との比高約40mの男山を利用して構築した平山城で、城跡は現在も主郭部や三段構成の帯郭、濠跡、馬場跡等が良好な状態で残っており、中世山城の条件を備えた極めて重要な史跡である。
久慈城は、久慈氏の居城であったが、その築城年代は定かではない。
久慈氏12代久慈備前守信実が「居を久慈大川目-八日館と云う-に構え(註1)」と記録されており、信実以前に既に城館があり、そこに居を構えたかもしれないし、あるいは信実によってはじめて久慈城が築かれたかもしれない。久慈氏は19代三百数十年にわたり久慈地方を治めたと伝えられているが、信実以前については諸説があり不明な点が多い。
天正19年(1591)、18代久慈備前守直治は、九戸城主九戸政実と三戸城主南部信直との争乱の際、女婿19代久慈中務政則とともに九戸方の武将として参戦した。しかし、豊臣秀吉の命により信直の救援に赴いた豊臣秀次を総大将とする大軍の攻撃を受け、九戸城を舞台に善戦したものの浅野長政の謀略にあい、ついに九戸方は降伏開城するところとなる。久慈備前主直治・政則父子は九戸政実とともに捕らわれの身となり、栗原郡三迫(宮城県栗原郡栗駒町岩ケ崎)に送られ処刑される。
九戸争乱の際久慈城は戦場とはならなかったが、久慈氏の嫡系が滅亡し城主を失った久慈城は、その後間もない天正20年(1592)6月、豊臣秀吉の諸城破却令によりとり壊され、姿を消す。
註1 久慈市史1巻通史(昭和59年11月1日久慈市史刊行会発行)の357頁による。
参考『久慈市の指定文化財』、『久慈文化財マップ』31

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