紫波郡八戸領図

収蔵施設名盛岡市中央公民館
公開解説八戸藩は現在の八戸市を中心に、青森県三戸郡の東部と岩手県九戸郡(久慈市の一部を除く)、そして紫波郡に飛び地を所有しました。志和四ヶ村(片寄・平沢・稲藤・土舘)は現在の紫波町西武に広がる穀倉地帯で、米作適地が少ない三戸、九戸を補う役割を果たしていました。この絵図は寛文12年(1672)に志和の八戸領と盛岡領の境に塚を築いたときに、両藩役員が立ち会って作成されました。
 飛び地である志和の八戸領の中に、さらに盛岡領の飛び地である新山神社の境内があります。新山神社は盛岡南部家の崇敬が厚く、この地を岩手山・姫神山・早池峰山と並んで盛岡の東西南北を守る山と位置付けていたそうです。
 八戸領内にはほかにも盛岡藩の飛び地が存在しました。八戸城下にほど近い八幡村には盛岡藩の総鎮守である櫛引八幡宮があり、全村がその社領となっています。また、久慈市の北部、侍浜のうち北侍浜・白前が盛岡領です。
 この2村は閉伊口村の枝村で製塩をおもな産業とし、慶安4年(1651)に戦国末期に廃止された馬を飼育する北野牧が再興されていました。寛文4年(1664)の八戸藩成立時はその領域となりましたが、盛岡藩の牧のうち田鎖牧(宮古市)が廃止され、それに代わる牧として盛岡藩がこの地を求めたようです。貞享2年(1685)、盛岡領の楢崎村(八戸市)の一部と北侍浜・白前が替地となり飛び地が形成されました。2村の人々は北野牧の管理とともに、八戸領に塩を運び穀米を交換して暮らしたそうです。 (「岩手県立博物館第52回企画展 南部と伊達」による)

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