宝篋印塔

資料名(ヨミ)ホウキョウイントウ
遺跡椎津城跡
時代・時期南北朝時代~室町時代
解説 宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる、組合せ式の石塔です。左の高さ85.9cm(現存部)、幅37.0cm、右の高さ86.3cm、幅33.1cmです。
 宝篋印塔は、もともと「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納める金銅製塔として中国で生まれましたが、わが国では石造供養塔(くようとう)として造立(ぞうりゅう)されました。
 関東では、西大寺の高僧忍性(にんしょう)が大和国から引き連れてきた大蔵派石工(おおくらはいしく)によって、鎌倉時代後期に「関東形式」と呼ばれる独特のスタイルが確立しました。鎌倉幕府の滅亡後は関東各地に広まり、量産化に伴って意匠の退化が進みます。さらに室町期になると、小型のものが主となっていきました。このような流れは、より広い社会階層まで受容されるようになったことを示しています。
 この2基はかつて椎津城(しいづじょう)跡の西郭にあり、散逸しないよう保管していた歴史研究者から市に寄贈されたものです。
 両塔とも典型的な関東形式の小型塔です。部位ごとに意匠の退化がある程度進んでいますが、基本的な形状は表現されていることから、戦国時代の遺跡から出土する小型塔よりは古いことが分かります。他の在銘資料と比較すると、おおむね14世紀第4四半期から15世紀前半までの間に造立されたと考えられます。
 椎津城はこれより新しいため、西郭が本来の造立地とは考え難いです。廃城時の城割(しろわり)(城の破却(はきゃく))が想定されているため、それ以降に別の場所から移されたのではないでしょうか。
 石造供養塔は見晴らしのよい景勝地に建つ例が多く、江戸湾が見渡せる主郭(しゅかく)の北側斜面(外郭(とぐるわ)古墳)こそが造立地点にふさわしいといえます。このエリアから多数の武蔵型板碑(むさしがたいたび)が確認されていることも、裏付けになります。
 村落を運営した人々によって、信仰の場であった外郭古墳に両塔や板碑が造立され、聖域を形成したと考えられます。その周囲に引き続き小型五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔が造立されましたが、椎津城の普請(ふしん)によって聖域は城内に取り込まれ、墓域としての機能を失っていったと考えられます。城割後、ここで命を落とした人々に対する供養塔として再利用するため、両塔を西郭の跡地に移したのかもしれません。

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