ルリカケス イラスト

徳之島に ルリカケスは いたか?

名称(ヨミ)トクノシマニ ルリカケスハ イタカ?
概要 鳥類学者の間でも、徳之島にルリカケスが分布していたことは、ほぼ間違いないだろうと考えられている。飛ぶことのできる中型の鳥でありながら、奄美大島、加計呂麻島、請島にしか分布せず、森林面積の広い徳之島に生息しない方が不自然であるためだ。しかしながら、本当に生息していたのか、あるいはいつ頃まで生息していたのかは、調査されていない。
 安部直哉 「山溪名前図鑑 野鳥の名前」(山と溪谷社・2008年・342頁)によれば、1920年(大正9年)に発見例があるとされている。
 天城町南部、住木野の山中に住んでいた猟師が生前、ルリカケスの色や形を的確に語り、さらに戦前までは生息していたという証言をしている。(福本哲良氏 談)
 吉満義志信「徳之島事情」(明治28年・第7章 物産 一、陸産物)によれば、「(前略)飛禽トハ、鷹、鴨、鳩、烏、千鳥、花吸、鷺、鶉、山烏、赤髭、鶯、磯尽、燕、啄木鳥、雀、雁、鷲等ニシテ、雁、鴨、鷹ハ毎年冬ニ来テ春ニ去ル」とある。(鷹はサシバ、花吸はメジロ、鶉はミフウズラ、磯尽=イソツクシはイソヒヨドリと思われる)文中に烏(からす)と山烏(やまがらす)が記載されている点に着目。幕末、奄美大島へ島流しとなっていた薩摩藩士、名越左源太(なごや さげんた)による「南島雑話」には、図と共に「紺瑤禽 ヤマガラス 一名 ヒヨシヤ」とある。奄美大島では島口でヒョウシャ、ヒューシャなどと呼ばれることから、徳之島事情にある山烏がルリカケスである可能性が大きい。しかしながら、文面から察するに吉満義志信が、あまり鳥類に明るくなかったことも確かである。
 一方、ルリカケスが減る要素としては、1919年(大正8年)に捕獲が禁止される以前、美しい羽を得る目的で乱獲が進んだ。さらに徳之島では、大戦末期の浅間陸軍飛行場の建設や、大和城山東側における独立混成第64旅団の駐屯地建設のため、木々の伐採が進み、はげ山となった場所が多かった。
 これらのことを踏まえ、大正から昭和にかけて徳之島の個体群は数を減らし、終戦間際のころに絶滅してしまった可能性も考えられる。
 いずれにしても、骨が発見されるなど物証が得られない限り、分布していたことは証明できないが、可能性は高いと思われる。

【参考】
国内では九州以北に分布するカケスや、国内および東アジアに分布するカケスの亜種とルリカケスとは、DNAの分析により約800万年前に種が分かれたとさる。より近縁なのは、ヒマラヤに分布するインドカケスで、約370万年前に分かれたと考えられている。

(文化財保護審議委員 山田文彦)

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