戸森の線刻画

名称(ヨミ)トモリノセンコクガ
中分類線刻画
小分類近世
所在地天城町瀬滝
時代・年代近世(17世紀頃)
遺産概要【位置と環境】
 戸森の線刻画は、天城町の南部に位置しており、徳之島最長の河川である秋利神川(全長約12km)の河口から1.5kmほど遡った、南側の海岸段丘上に立地している。一帯は、山地と隆起珊瑚礁との間に形成された盆地状に広がる海岸段丘となっており、更新世に堆積した砕屑物層であるいわゆる琉球層群が厚く堆積している。現在では、サトウキビ畑が広大に広がる地域となっているが、平成7年の農地開発が行われる前までは、いくつものヤツデ葉状の尾根とその間に形成された湿潤な谷地が迷路のように広がり、多くの谷地には水田が築かれていた。昭和40年代頃までは、戸森集落が存在していたが、戦後多くの集落民が隣接する瀬滝集落に移り住み、現在では集落は消滅してしまっている。
 戸森の線刻画一帯は、近年まで、瀬滝集落の人々が耕作する田んぼが多くあり、瀬滝集落の人々は、田植えと収穫時期には泊り込んで作業を行ったとされ、戸森の線刻画一帯は、瀬滝集落の人々から通称「フナダ」と呼ばれていた。

【調査経緯】
 貴重な文化財である戸森の線刻画を地域住民に認知してもらうとともに、永続的な保存を行うために、線刻画の年代や歴史的価値を明らかにするための調査を平成24~27年にかけて実施した。

【概要】
 平成29年4月21日、鹿児島県指定の文化財(史跡)となった。
 戸森の線刻画は三つの岩盤に船や弓矢などの画が線刻によって描かれたもので、現在のところ、このような線刻画は奄美群島で徳之島でしか確認されていない。
 徳之島では、このような線刻画が他の場所でも見られ、現在のところ、母間(徳之島町)、馬根(伊仙町)、三京(天城町)、犬田布岳(天城町・伊仙町の町境)で確認されている。
 戸森の線刻画は大正十二年には地域住民によって確認されており、犬田布岳の線刻画については、明治28年に編纂された「徳之島事情」に、その存在が記録されていることから、少なくともこれらの線刻画が明治~大正時代以前には描かれたと考えられる。
 周辺の発掘調査の結果、最も古く遡ると17世紀後半頃から戸森の線刻画一帯の開発が始まり、その後、水田として利用されたことが確認された。
 描かれた線刻画を検討すると、第一線刻画に最も大きく描かれた船の線刻画は帆が縦線で描かれることから、布帆(木綿帆)が普及した江戸時代以降の船が描かれた可能性が高いと考えられる。
 次に船体の描き方を、第1~第3線刻画ごとに見てみると第1線刻画→第2線刻画→第3線刻画と船の線刻画が次第に簡略化して描かれていることが確認された。また、線刻の太さ自体を確認してみると第1線刻画は太い線刻が多く第2線刻画では細い線刻画が多くなり、第3線刻画は、そのほとんどが細い線刻で描かれており、線刻の太さについても次第に簡略化している傾向が確認された。
 このことは、島外からやってきた人が一度にこれらの線刻画を描いたのではなく、江戸時代頃に島民が一定期間に亘って線刻画を描くという行為が伝統的に行われたことを指し示していると思われる。
文献・資料〈参考文献・資料〉
●埋蔵文化財情報データベースhttp://www.jomon-no-mori.jp/kmai_public/
●森 浩一1978「船田の岩絵」『新・日本史への旅 西日本編』朝日新聞社
●木村政昭1986「徳之島の山中にみられる正体不明の線刻画」『沖縄文化』六七号
●木村政昭ほか1986『徳之島の線刻画調査・発掘・解析』琉球列島線刻画調査報告第一巻
●国分直一1993「Ⅳ海島の不安」『北の道 南の道 日本文化と海上の道』
●熊本大学考古学研究室1985「周辺遺跡分布調査」『玉城遺跡』研究室活動報告19

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