1867年中原万兵衛(在大島)から中為宛の書状⑥

中分類古文書
小分類近世文書
資産概要解説 この書状は大島代官所勤務になって赴任してきた中原万兵衛から届いた書状である。先に、仲為が中原の詰役勤務の情報を得て、大島に手紙と落花生を送っていたので、これに対する返書である。仲為は⑤の西郷家宛の書状とともに、徳之島からの上り便に託して大島に来た中原にも書状を認めたのであろう。西郷家宛の手紙は写しをとって自宅に保管したものと考えられるが、中原宛は控えを取らなかったものと思われる。手紙を受け取った中原は都合よく下り便があったのであろう、早速返事を書いたが、丁度役人たちが代官所にやってきていて、年度終わりの上納事務の最中であったために、詳しい手紙だけが書けなかったことを詫びている。この時期が何時であったか、日付がはっきりしないのが惜しまれる。中原は「此の上は其の方は勿論家内中へも安心致され候方、仲祐為にも然るべき事と存じ上げ候間、家内中へも程演舌給わるべく候」と書き送って仲為に気持ちのけじめをつけるよう論している。果たしてこの後、二人の間はどのような書状が取り交わされたであろうか。最後に岡本家に伝わる川口と西郷の書幅について、感想を述べておこう。川口雪篷の書は和泊町西原に伝えられている書幅の書体と同じく豪快なものであるが、西原の文字が一回り大きく肉太で、速さと震えが感じられる。この違いは、書いた年齢によるものであろう。決して同じ時期に書かれた筆運びではない。山田尚二「川口雪篷の書幅」によると」、杜牧(中国唐時代の詩人)の次の漢誌「山行」が書かれているという。  
遠上寒山石径斜 白雲深處有人家 
停車座愛楓林暁 霜葉紅於二月花 雲外狂吉
この書には「雲外狂吉」という号が書かれている。前述したように雪篷は沖永良部島遠島中には、「香雲」「狂迂」を用いていたので、この「雲外狂吉」は鹿児島かに帰ってから「香雲」「狂迂」を合わせて命名したものであろうか。西郷の書といわれる書幅も沖永良部島の獄中で書いた島役人貞郷に贈った漢誌の楷書とは、書体が全く異なる草書体である。また、号「南洲」の書体も全く時期を異にしたものである。岡本家所蔵「南洲書」は、小田正治「南洲翁の初期揮毫について(雑記)」によると、明治三年前期のものであろうという。いずれにしても「南洲」という号自体が、重野安繹の語るところによれば、沖永良部島の獄中で名付けたものであった。          このように、徳之島の伝西郷書は在島中に書いたものではないようであるが、川口の書とともに明治以降に揮毫されたものであるところに、重要な意義がある。西郷と川口が仲祐の病死を悼み、仲為に贈った書であったと考えると、仲祐の死は西郷や中原の書状とともにこの書幅を後世に残したことになる。そして、西郷は徳之島在島中に島民との交流を深め、島の子供にも差別なき親愛の情を示していたことを物語る貴重な歴史史料として、さらには西郷の人間性を後世に伝える遺品として、書簡とともにその価値は高いものであると確信する。

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